見出し画像

呪いの言葉に効用はあるのか?④:《クルアーン》「棕櫚章」をめぐって(第4回/全4回)

「尊厳」の基礎

岩井は、資本主義経済を存続させる観点から、不純物の存在が不可欠と主張したわけだが、戦争は、自己利益追求の原則から大きく離れた市場にとっての不純物であり、その点でまさに資本主義の発展にとっては、おいしすぎる餌食である。戦争による血の流し合いが経済の成長を支えるということになり、信じるものと信じない者との間の線引きがそれを少なからず助長していたとなれば、それに加担する格好になる。
そうなると、たとえば「棕櫚章」の位置づけは何とも微妙である。この点において、欲望の資本主義を抑制できるだけの、そして、資本主義を維持しようとする岩井の主張とは別の文脈、すなわち、資本主義を相対化し、人々がその重力で身動きが取れない状態から解放できるような普遍原理が求められることになる。

岩井は、それが「同情・共感・連体・愛情に依存しない普遍的な原理」である必要があると主張する。番組が取り上げたのがカントによる「尊厳」という言葉だ[i]。しかし、岩井自身も、そのドキュメンタリーもこの語を欲望に拮抗する言葉として結論的に用いてはいるものの、普遍原理であるとしているわけではないし、かといって引き算の普遍原理を凌駕ができる普遍原理を提示するわけでもない。

もちろん、人間としての「尊厳」は究極的な価値として守られるべきものではあるが、それを普遍的であるとするためには、資本主義を主導しているのが「引き算の普遍原理」と言われるような形で、「引き算」を乗り越えるだけの「普遍原理」が欲しいところだ。「引き算」でなければ、「足し算」か。いや、そのレベルにか絡めとられていたのでは、引き算がもたらす資本主義の普遍性を相対化することはできない。

着目すべきは、四則を成り立たせる土台足る「数」の存在。創造主は自らを「有るもの」「一なるもの」とするが、その「1」という「有」は何一つ必要としない外部を持たない完全な「1」、つまり普遍的な「1」であるが、そのアッラーが行なったことの一つが、人間の創造である。つまり、それを信じない者たちも含め、ゼロを「1」にしたのだ。一人一人がこの世に生を享けているといはこういうことだ。誰であれ、生まれた時点で、最初の「1」が与えられているのである。

ただし、こちらの「1」は、個別特殊的で、完全性を欠く、いやそれぞれに足りないところばかりという意味で、唯一無二の存在だ。アラビア語では、尊厳を「カラーマ」と言うが、その根っこには、「物惜しみをしない」という採算度外視の高貴さがある。つまり、経済活動に取り込まれることのない篤信による行為が、そこにはある。その主体たるこの「1」は、資本主義の引き算をもってしても、本来は、決してゼロになることはないし、することも許されない。それが人間の「尊厳」を支える「存在の普遍原理」だ。

創造主は、その「1」が欲望にとらわれて強欲にふるまうのなら現世では放置しておいて、現世で持つことによる苦しみを与え、さらに来世で懲罰を与えるし、敬虔にふるまうのなら現世での平安と来世での至福を約束する。

إِنَّ ٱللَّهَ يُدۡخِلُ ٱلَّذِينَ ءَامَنُواْ وَعَمِلُواْ ٱلصَّٰلِحَٰتِ جَنَّٰتٖ تَجۡرِي مِن تَحۡتِهَا ٱلۡأَنۡهَٰرُۖ وَٱلَّذِينَ كَفَرُواْ يَتَمَتَّعُونَ وَيَأۡكُلُونَ كَمَا تَأۡكُلُ ٱلۡأَنۡعَٰمُ وَٱلنَّارُ مَثۡوٗى لَّهُمۡ (12)

本当にアッラーは信じて善行に勤しむ者を、川が下を流れる楽園に入らせられる。そして信仰しない者には(現世の生活を)楽しませ、家畜が食うように大食させて、業火を彼らの住まいとする。

聖典クルアーン「ムハンマド章」12節(47:12)

いずれにしても、その「1」を人間ごときの判断で、たとえそれが自分の意思であったり、支配者の独断であったり、皆の総意であったりとしても、奪うことは許されない。

アッラーは怒るが…

そして、本当に1を信じているのであれば、最後の審判にすべてを委ねればよいので、「1」や「有る」が分からないからと言って、その人たちを非難したり攻撃したりする必要がない。信じるか信じないかから始まって、何をどの程度の程度信じるのかも含め、また常に信じているのかときどき思い出して信じるのかなど、実に千差万別。そこにあるのは無限のバリエーション。アブー・ラハブかどうかは、人間が判断できることではない。しなくていいし、する必要もない。クルアーンにおいても、《アッラーは偉力ならびなき応報の主であらせられる》(イムラーン家章3:4){واللهُ عَزِيزٌ ذُو انْتِقَامٍ}とされる。

創造主のみが奪い取り、救い出すことのできる創造主によって与えられた命。帰るところも決まっている。そのことを心配する必要はない。それがないと、何かとお金に振り回される。金さえあればと思うから。しかし、お金も所詮は作られたもの、自分には帰るところがあると思えば、気が楽になるというもの。株価であれ、為替レートであれ、次の瞬間どちらに動くかは、上がるのか、下がるのか、そのままなのかの3択しかないのに、予測は難しい(ほとんど当たらない)。そんな状態であったとしても、やがては、財貨も稼ぎも役に立たない世界に帰ると思えば、プライスレスな善行にも励むというもの(とも言えないのが貨幣におぼれている現実であろうが)か。

アッラーが怒らないわけではないけれど、99の美名の中に「怒る者」はない。敵に対する対処・対応において、怒りから始まる場合は少なくない。ただ、怒り自体は2次的な感情であって、怒りは、それに先立つ一時的な感情によって引き起こされるものであるとするならば、いたずらに怒りをこみ上げさせる必要はない。無駄な争いと不毛な殺し合いにつながりかねない。

復讐は創造主がしてくれる。彼に委ねればよい。だから、怒りがこみ上げるようなら、あるいは、怒りをこみ上げさせるためならば、「滅んでしまえ、腐ってしまえ」から始まる「棕櫚章」の扱いは慎重にした方がよい。

 創造主の「知」の探究

この比べるもののない「1」の存在は、信じるという行為以外にわかることはできないのであろうか。アブー・ラハブとその妻のように不信心者には懲罰が下り、信者には報奨があるから信じなさいと命じる以前の問題として、外部を持たない「1」が「有る」から、「無限の多」としての「1」が「有りうる」ことが必然的なものとして説明できれば、合理性の範囲内で、この問題に決着がつくが、「1」なる「有る」存在が見えない以上、理性にこれを求めるのは酷というもの。どうしても心の問題になる。

信じることは、「1」なる「有る」存在を探究し続けることである。向き合いながら探し続ける。創造主の意図、そしてその意味。持続的な探究があってはじめて本当に信じることになる。自分にだけ通用する運用上の真理。差異を探し続けることになるが、利潤は生まない。しかし、他でもない私が唯一無二の存在として、自分の生を生きていることはつかむことができる。生きているだけで価値があることが分かるというものだ。
そうして、一日一日、一瞬一瞬、一つ一つの行為を通じて、少しずつでも、創造主に対して、よい貸付を行うようにする。この貸付は、善行によって積み上げられるため、お金はかからない。祈るもよし、忍耐もよし、人に寄り添うのも、施すもよい。無償の善行は来世で報われる。あとで何倍にもして返してもらえる。粛々と積み上げればよい。《善と悪とは同じではない。(人が悪をしかけても)一層善行で悪を追い払え。そうすれば、互いの間に敵意ある者でも、親しい友のようになる》(フッスィラ章34)

何を読むのか

少なくとも、創造主に対する探究があっての創造主の言葉である。創造主の言葉は糸口にすぎず、今も刻々と行われている創造については、聖典によるのではなく、私たち自身が読んでいかなければならない。かつて私は、空気を読むくらいなら、聖典を読めと主張していたが、聖典も読むし、空気も読む、空気まで行かなくとも、森羅万象は読んでいくということがあって、はじめて「1」にして「有る」ものの理解・把握に近づけるのだと思う。

ムハンマドに対する最初の啓示は、《読め。》であり、通説的な解釈では、クルアーンを読めと解されるが、クルアーンを指しているのではないという説も存在する。《すべての創造を行ったあなたの主の名前によって読め。》と言っているのだから、読まなくてはいけないのだけれど、何を読むのかは明示されておらず、ただ、読むときには創造主の名前によって読めと読むことができる。聖典の聖句(アーヤ)そのものだけでなく、刻一刻と変化する森羅万象に刻まれている創造者の徴(アーヤ)を読むことが命じられていると読むことは決して間違った解釈ではない。「1」なる「有る」ものが自己展開する軌跡は見ることができる。
創造主とそのアーヤをさておいて、人々の心をひたすらに読もうとする禁欲性と合理性が市場の不安定を生んでしまうのであれば、人の心や空気以外のものも読むべきだ。創造主によって刻一刻と繰り広げられる創造の徴(アーヤ)を聖典とともに徹底的に読み込むこと。創造主の「知」の探究。それは、見えるものに依存してきたこれまでの科学的で合理的な知の在り方を乗り越えて、理性と心とおそらくは魂をもつなぐ統合的な知を構築する。

そのためには、信じる心の涵養が肝要だが、究極の創造主に対する専一的な信仰心の前に欲望をはじめとする障害も数知れない。となると、呪いの言葉は自分に帰ってくる。せめて、文法の動詞の人称による変化の練習を「カタラ」で行うのは控え、ひろくアーヤを読もうと思う。アッラーフ・アアラム。 

補足:貨幣について

貨幣は、貨幣であることによってのみ貨幣なのだ。貨幣の価値を金塊も労働も社会や国家も担保できないのだ。何かが貨幣の価値を支えているのではない。(何かが貨幣の価値を支えている状況であれば、その価値を薄めてしまうような利子というのは貨幣にとって敵でしかなかったのかもしれないが、もはやその時代ではない。)未来の可能性を膨らませてくれるもの、あるいは将来の不安を少しでも解消してくれるものが貨幣だということができるのかもしれない。それは、しかし、貨幣の機能の一つなのであって、貨幣の価値とは関係がない。貨幣は、モノへの欲望と将来への不安の間を行ったり来たりする。前者が勝てばデフレだし、後者が勝てばハイパーインフレだ。
つまり、貨幣には価値的な根拠はない。本質がないのなら、過度に振り回される必要もないのだが、偶像崇拝が大好きで他者との比較のなかでの承認欲求をくすぐられ、気が付くと貨幣の沼にはまっている。


脚注

[i] BS1スペシャル 「欲望の資本主義特別編 欲望の貨幣論2019」(後編)7月14日(日)23:00放送。NHKオンデマンド。


タイトルページ画像:

イマヌエル・カントの肖像
Gottlieb Doebler - http://www.philosovieth.de/kant-bilder/bilddaten.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=32847847による

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?