見出し画像

「天女」でも「ブドウ」でも:イスラームの天国について

せんせんと流れる川の上に

何ものでもない状態から現世に生を享け、審判を挟んで、来世に復活する。「2度死に2度生きる」というイスラームの死生観。クルアーンが繰り返すのが、この世よりあの世の方が、圧倒的によいということ。たとえば、《本当に来世はあなたにとって現世よりよい》(「朝章」第4節)「アッラーがあなたが満足するよういくらでも与えて下さるのだから」「今は、周りの人々に惜しみなく与えなさい」となる。
その来世にあるとされる楽園だが、幾重ものせせらぎがその下を閃々と流れる永遠の園であることも、クルアーンの中では何度も言及されている。天国に入ることを許された人々はそこで永遠に暮らす。

天国のアイテム

天国と聞くと、そこにいる人々は悟りを得て、瞑想にふけっているイメージがあるが、クルアーンは、具体的に、どのような場所なのかを教えてくれている。
たとえば、《そこには、流れる泉があり、高く上げられた(位階の)寝床があり、大杯が供えられ、褥は数列に並べられ、敷物が敷き詰められている》(「アルガーシヤ章」第12節から16節)。
泉の流れは尽きることはなく、寝台には、宝石がはめ込まれていてとにかく豪華。その上には、並べられたクッション。そして天女たち。部屋にはこれもまた豪華な絨毯が敷き詰められている。天女たちについては、
《園と泉の間に、絹や錦をまとい、互いに向き合って、このようにわれは輝いた大きい目の乙女たちを彼らの配偶者にするであろう》(「煙霧章」第52-54節)など、聖典上では数回の言及がある。この表現、今どきの日本的には「不適切」極まりないものである。

天女なのか、ブドウなのか

アラム語という言語がある。イエス・キリストが実際に使っていた言語とされ、現在なお、シリアのマアルーラなど一部の地域で残っている言葉である。アラビア語があの地域に広がる以前は、アラム語が支配的で、聖典クルアーンもまた、そこから大きな影響を受けており、アラム語から読み直すことが可能だという主張がある[1]。
そこで代表的例として取り上げられるのが、この「天女」である。
聖典では、「حورٌ عينٌ フールン・アイヌン」とされ、「フール」が「天女」、「アイン」が目なので「つぶらな瞳の」とかなりの意訳になっている。(厳密には、フールが複数名詞であるから、形容詞として「アイン」を使うのなら、それ相応に語形の変化があるはずだが、聖典の明文がそうなっている以上、どうしようもない)。
アラム語で読むと、「フール」が「白いブドウ」(神にも捧げられる最高級のブドウ)のことであり、「アイン」が、「粒ぞろいの」といった意味になるという。

アラム語とアラビア語

手元でアラム語を調べてみると、「フール」にあたる言葉は、現に存在し「白い」という意味。「アイン」にあたる言葉には「目」と「泉」という意味を確認できる。実は、アラビア語「フール」には、「白い」という意味はあり、「アイン」の代表的な意味も、その二つである。つまり、言語的に、ある種の継受の関係があるのであれば、「フール」にしても「アイン」にしても、その意味は、両言語で保たれていることになる。となると、「ブドウ」がどこから来たのかが気になるが、「アイン」の語尾に「b」を付けて「アイナブ」とするといずれの言語でも「ブドウ」を意味するということだけ付け加えておきたい。

ちなみに、「フール」は天女ではなくブドウであったはずだという指摘は、まだまだ検証の余地があるとされ、「天女に会えるかと思って殉教したらブドウだった」などと、むしろ、揶揄の対象にさえなっているようだが、アラビア語より古い言語からの視点で、アッラーの言葉の意味を探ってみるというアイディアは、頭ごなしに否定されるべきものではないと思う。現に上にも見たように、「フール」の「白い」という意味が、アラム語にもあったのだとすれば、そちらに重きを置いた解釈も可能となろう。注釈書の中でも、「フール」は、「白」で、「タフイール」(フールの2形動詞の動名詞)が「白くすること」だという指摘は行われている。

アラブの官能性の出自

イスラームの教えは、しばしば、欲望を悪魔の業とし、それとの闘いを、不信心者に対する戦いの同じように、その重要性を強調するため、「アラブ文化」の官能性は、オリエンタリズムの産物のように思われがちであるが、じつは、実際に官能的で、修道院の禁欲主義や快楽の拒否、欲望の暴走にも無頓着であったからこそのイスラームの教えだったという側面もあるはずだ。
アラブ世界が、禁欲的な方向にかじを切ったのは、19世紀のキリスト教世界からの倫理的影響に対して、イスラームの中で想定されている淫乱や肉欲といった事柄への非難に対して自らを擁護するためだという指摘もある[2]。

貪欲は善: Greed is Good.

天国では、悪口や誹謗中傷とかと言った言葉を聞かないという(アルガーシヤ章。善人ばかりなのだろうなぁと思ったら大間違い。次から次へと欲望が満たされるのだから、不平不満や文句を言っている暇がないだけではないのか。
つまり、天国でこそ「貪欲は善」なのだ。ところが、映画『ウォール・ストリート』が象徴するように、「この世で」この「貪欲」を謳歌し、天国の分の前倒しはもちろん、他の人の分も奪い取っているような状態。だから、いくら食べても腹も心も満たされない。それだから、なお一層貪欲のアクセルを踏む。
となれば、地獄も誰かが引き受けさせられている。さらにWIN‐Winの関係があればその陰に大きな Lose が口を開ける。誰かが天国を造ろうとすれば、誰かがそのおかげで地獄を見る。戦争も絶えないはずだ。貪欲が暗躍してまさにこの世は、日々、天国と地獄の混沌だ。昨日までの天国が暗転し、地獄に変わることだって普通に起きる。まさしく、一寸先は闇。「フール」には黒白のコントラストという意味もある。天女は「目を疑うような栄枯盛衰」という意味にもとれる。まさにそれが、この世の姿か。

ギラギラの発動を来世まで待つのが忍耐だろうか。来世で無尽蔵の酒池肉林に身を委ねることが、本当に至福なのだろうか。注釈学者たちは、この世からの類推ではたどり着けないレベル違いの快楽だというだろう。しかし、それってたとえば女性に薦められますか?
いや、むしろたとえ至極のブドウの一粒がなくても、心安らかに時を乗り越えていけるのが悟った心というものではなかろうかと悟れない自分の心は言う。天女やブドウの獲得のために戦争で人を殺せるのか?自分にはできない。アッラーフ・アアラム

脚注

[1]クリストファー・ルクセンブルク(偽名)『Die Syro-Aramäische Lesart des Koran』
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Syro-Aramaic_Reading_of_the_Koran

[2]ムハンマド・フジャイリー「「フール・アイン」の意味についての論争:天女かそれともブドウの実か」
الصراع على معنى الحور العين:نساء الجنة ام ثمار العنب
محمد حجيري
電子新聞『アルムドゥン』(ベイルート)文化部長
الأحد 2020/09/20

参考URL

トップページ画像:

By Daderot - Own work, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22802483

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?