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中世キリスト教修道生活の核心その2 序論 2ー禁欲・自己放棄・沈黙ー ChatGPTでアベラールとエロイーズ

前回からの続きです:


ルカ伝14の33:無所有=すべてを捨てる

ルカ伝14の33:すべてを捨てる sine proprietate vivatur=omnibus renuntiare
31 Ἢ τίς βασιλεὺς πορευόμενος ἑτέρῳ βασιλεῖ συμβαλεῖν εἰς πόλεμον οὐχὶ καθίσας πρῶτον βουλεύσεται εἰ δυνατός ἐστιν ἐν δέκα χιλιάσιν ὑπαντῆσαι τῷ μετὰ εἴκοσι χιλιάδων ἐρχομένῳ ἐπ' αὐτόν;
32 εἰ δὲ μή γε, ἔτι αὐτοῦ πόρρω ὄντος πρεσβείαν ἀποστείλας ἐρωτᾷ τὰ πρὸς εἰρήνην.
33 οὕτως οὖν πᾶς ἐξ ὑμῶν ὃς οὐκ ἀποτάσσεται πᾶσιν τοῖς ἑαυτοῦ ὑπάρχουσιν οὐ δύναται εἶναί μου μαθητής.
34 Καλὸν οὖν τὸ ἅλας: ἐὰν δὲ καὶ τὸ ἅλας μωρανθῇ, ἐν τίνι ἀρτυθήσεται;
35 οὔτε εἰς γῆν οὔτε εἰς κοπρίαν εὔθετόν ἐστιν: ἔξω βάλλουσιν αὐτό. ὁ ἔχων ὦτα ἀκούειν ἀκουέτω.
31 Aut quis rex iturus committere bellum adversus alium regem, non sedens prius cogitat, si possit cum decem millibus occurrere ei, qui cum viginti millibus venit ad se?
32 Alioquin adhuc illo longe agente, legationem mittens rogat ea quæ pacis sunt.
33 Sic ergo omnis ex vobis, qui non renuntiat omnibus quæ possidet, non potest meus esse discipulus.
34Bonum est sal: si autem sal evanuerit, in quo condietur?
35 Neque in terram, neque in sterquilinium utile est, sed foras mittetur. Qui habet aures audiendi, audiat.
31 また、どんな王も、別の王と戦争に備えて進む前に、自分の一万の兵力で対抗できるかを考え、対面する相手が二万の兵力を持っている場合、使者を送って平和を求めるでしょう。
32 もしそれができないなら、相手がまだ遠くにいるときに、使者を送り、平和を求めなさい。
33 それと同様に、あなたがたのうちで誰もが、自分のすべての財産を捨てない限り、わたしの弟子になることはできません。
34 塩は良いものですが、もし塩が味を失ったら、どのように味付けすることができるでしょうか?
35 塩は土にも肥料にも適していません。人々は外に捨てるしかありません。聞く耳のある者は聞きなさい。

https://www.newadvent.org/bible/luk014.htm

31,32ときて33になる話の流れが見えないが、下記のようにキーワードは順番が違うが出てくる。この差がなんなのか私にはわからないがChatGPTでは差がない。
renuntiat omnibus(聖書)→omnibus renuntiare(アベラール)
格が読めれば問題ない倒置なのかも。
 このように無所有は本当に全て自分の財産を捨てる、ということで修道院に入るにあたり一切の所有は認められなかったようである。日本の仏教の出家制度や悟りと比較したら面白いかもしれない。
 キリスト教の自己放棄、自己犠牲は聖書レベルで書き込まれているのでどの宗派にでも現れる。自己放棄しない限り救済されない。

マタイ12の36:沈黙もしくは無駄な言葉=空虚な言葉を避ける

マタイ12の36:沈黙もしくは無駄な言葉( silentio mavime studeatur=otiosum verbum.)
35 ὁ ἀγαθὸς ἄνθρωπος ἐκ τοῦ ἀγαθοῦ θησαυροῦ ἐκβάλλει ἀγαθά, καὶ ὁ πονηρὸς ἄνθρωπος ἐκ τοῦ πονηροῦ θησαυροῦ ἐκβάλλει πονηρά.
36 λέγω δὲ ὑμῖν ὅτι πᾶν ῥῆμα ἀργὸν ὃ λαλήσουσιν οἱ ἄνθρωποι ἀποδώσουσιν περὶ αὐτοῦ λόγον ἐν ἡμέρᾳ κρίσεως.
37 ἐκ γὰρ τῶν λόγων σου δικαιωθήσῃ, καὶ ἐκ τῶν λόγων σου καταδικασθήσῃ.
35 Bonus homo de bono thesauro profert bona: et malus homo de malo thesauro profert mala.
36 Dico autem vobis quoniam omne verbum otiosum, quod locuti fuerint homines, reddent rationem de eo in die judicii.
37 Ex verbis enim tuis justificaberis et ex verbis tuis condemnaberis.
35 良い人は、良い宝庫から良いことを引き出し、悪い人は悪い宝庫から悪いことを引き出します。
36 しかし、言っておきます、人々はささやいたり、隠したりせず、裁きの日に言ったすべてのことについて口実を述べなければなりません。
37 あなたの言葉によって正義を立証し、あなたの言葉によって罪を認められるでしょう。

https://www.newadvent.org/bible/mat012.htm

「無駄な言葉」がキーワードになっている。ここも語順が入れ替わっている。アベラールの参照したラテン語聖書がそのようになっていたのか、プロならそのような写本を探すべきか。意図的なひっくり返しなのか?
verbum otiosum(聖書)→otiosum verbum(アベラール)
(言葉)(無駄な・無益な)→(無駄な・無益な)(言葉)
最後の審判で言ったことは全て詳らかにされるので、無駄なことは言ってはいけないとしている。

修道院規則・戒律について

 次回以降禁欲・放棄・沈黙について修道院規則の系譜に沿ってのアベラールとの関連箇所を調べていくので修道院規則について紹介しておこう。
修道院規則として下記4文書の比較:
・著者不詳 「ディダケー(12使徒の教え)」中世思想原典集成1巻 初期ギリシア教父(平凡社)
ポンティコス(345-399)「修行論」(385-399年ごろ成立)同3巻後期ギリシア教父・ビザンティン思想
アウグスティヌス(354-430)「神の僕のための修道規則」(395-396年成立)同4巻初期ラテン教父
ベネディクトス(480-547/60)「戒律」(547/60ごろ成立) 同5巻後期ラテン教父
 もちろんベネディクトゥスの文書の影響力が最も強く、エロイーズがこの文書に、女の規則がない、なんとかして、でもがんじがらめにしないで運用しやすいものにして!(「アベラールとエロイーズ」p145)と訴えたことから議論が始まっている。アベラールは実践面でも答えているが理論面でも議論を深めている。

フーコーの提示によるキリスト教道徳

 キリスト教の告白や悔悛の起源を探索したフーコーの性の歴史4巻は、2ー3巻が執筆される前に書かれ、改訂されることなく亡くなってしまったので3巻で展開された「自己への配慮」といった重要な概念が入っていない。それでも自己の自己との関係という生存の美学を思わせるフレーズはすでに出てきている。
 はじめに、フーコーの捉えるキリスト教について確認しておこう。キリスト教が愛の宗教とかそういうことは言ってない。そうではなくて: それ(キリスト教)は「救済」の宗教で「個人を、ひとつの現実から別の現実へと、死から生へと、時間から永遠へと導くことを使命」としている。・・・「それ(キリスト教)はまた告白の宗教」・・・「特定の書物を永続的な真理の源泉とみなすこと」・・・「真理に関する権威主義的な決定に同意すること」・・・「キリスト教という制度の権威を認容すること」などの特徴を「フーコー・コレクション5 性・真理」(ちくま学芸文庫)の「12 自己の技法 pp387」に述べている。特定の書物とは聖書のこと。このように表現するということはキリスト教に対し突き放した姿勢を見せています。
 そしてフーコーは「性の歴史4巻」では4世紀の頃のオリゲネス、テルトルニアス、カッシアヌスなどの文献から系譜を読み解いている。彼らの執筆物は中世思想原典集成などで読める。また、フーコー講義録「生者の統治」「主体の解釈学」(筑摩書房)も絶版ではあるが参考にされたい。
 キリスト教の実践の系譜であるが、フーコーは「性の道徳」についてギリシア古代からローマ帝制期かけて哲学関連の文献を調べ、すでにギリシア時代に性の実践の様式が芽生え厳格化され(2巻)ローマ時代のストア派時代に引き継がれてきていることを示した(3巻)。その厳格さはキリスト教の教父たちによって「大量の借用」がされたとしている(例えば第3巻p55、第4巻p483)。
 そして、性の歴史4巻p163第1章「新たな経験の形成」第4節「技法中の技法」では「じつは、古代の哲学者たちが練り上げた良心の指導および検討の実践は、修道制によって初めて、そこで発展して新たな形態と新たな帰結を得たのだった。・・・完全な生ーつまり、『振舞いの清らかさと存在するものに関する真の認識とがそこで結びつくような生存』ーへと導くためのものであることによって、修道制は優れて哲学的な生として現れることができた。」と述べ、修道制の重要さを強調している。このことはアベラールとエロイーズを読み解くのにフーコーが適していると私が考える根拠である。
 フーコーの考えるキリスト教道徳の特徴についての結論を3巻から示そう:
 「性の歴史3巻」の結論末尾p313より
「(人間の)有限性や失墜堕落や悪を出発点とした倫理的実質の何らかの特徴づけであり、ある一般的な法、同時に何らかの人格神の意思でもある一般的な法への、服従という形式での隷属であり、心の解読ならびに浄化本位の欲望解釈学をともなうある型の自己訓練であり、自己放棄を目差すある様式の倫理的完成である。」
 というのだがほぼ何を言っているか専門家にしかわからないだろう。覚えてほしい言葉がある「服従」「自己訓練(鍛錬)」「自己放棄」。この三つは実はすでに修道院戒律の紹介などで話題にした(下のリンク)。どこまで服従、自己訓練(鍛錬)や自己放棄を求めるのか?その根拠は何か?という視点でお付き合いいただければ多少はわかりやすいかもしれない。なお自己訓練は鍛錬でありそれゆえ禁欲や節制という概念と結びついている。

まとめ:

 アベラールの考える修道院の核心は3つの概念に絞られる。貞節・禁欲、放棄、沈黙である。
 アベラールは聖書を引用する際になぜか言葉の語順を変えている。活用形も変わる場合もあるようである。意味があるのかないのか。あるいはウルガタ写本の異文か。
 キリスト教には聖書の他に、このような規則や戒律、プロテスタントだって教会法というものがある。
 フーコーは修道院生活を哲学が行われた重要な場だと捉えている。フーコーの「肉の告白」は3−5世紀の原始キリスト教であるが、12世紀のアベラールに適用できるところを探していく。あわせてギリシア=ローマ世界からの倫理の系譜も確認していく。
 3つの概念についてそれぞれの意味するところをアベラールの記述と引用先の文章、そして修道院規則を参照し次回一つづつ検討していく。

関連リンク

執筆後記


トップ画像の写真はヴェズレーのタンパンの下部で耳の大きいスキタイ人と言われている。詳しくは下記PDF参照。写真は私が撮ったものです。

https://core.ac.uk/download/pdf/159385781.pdf

 次回はアベラールとエロイーズの節制=禁欲を予定しています。

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