見出し画像

ChatGPTによる真理の勇気その5 反パレーシア体制とキュニコス派によるパレーシアの生き残り戦略

 前回までで偽ディオニシオスのギリシア語文書のパレーシア部分のラテン語に翻訳されているかChatGPTを活用して覗き見して、エリウゲナはパレーシアした翻訳をしたのではないか、と考察しました。パレーシアが使ってある原著の部分は聖書に見られるようなポジティブなパレーシアで「神への信頼、最後の審判への信頼」が感じられる内容でした。エリウゲナはパレーシアをギリシア語からラテン語に、「真の理性はこれを言うことにも挑戦するでしょう」と翻訳していました。当時の修道院戒律と付き合わせてみると、神は畏怖の対象で、修道の中でのこのような発言は傲慢な発言と言われかねない状況の中であることが推察されました。パレーシアした「神への信頼」の原著の内容は修道院戒律とは真逆なため、傲慢なことであると考えられることからエリウゲナは勇気を持って、大事なことだから、と翻訳したことが推察されます。

 このような説明は、フーコーの「真理の勇気」を偽ディオニシオス文書に応用したものです。改めて、フーコーの講義を確認、なるべく時代順に再構成しましょう。(今回は本論ではChatGPT使いません。)

 まず、聖書を扱った時の続きに話を戻しましょう。パレーシアのもう一つの極としてバレーシアに懐疑的な態度を取る人々いわば反パレーシアを説明しています。どういうことでしょうか。
 この反パレーシア(pp425)について講義ではすこしわかりにくいので講義を補って書いてみます。パレーシアならぬ反パレーシアは、いわばネガティブなパレーシアで4世紀頃の「砂漠の師父の言葉」(*末尾に掲げています)を例に挙げています。修道生活がだんだん制度化されてくると、兄弟と共に修道生活を送るにあたり「自分にも他の人々にも不信を抱かず全面的な信頼とともに世界の中で生きる危険」「パレーシアを実践」することで「本当の修徳主義的生においてなすべきこと」である「自己の練り上げ」「自己の解読」を忘れてしまう「危険」があり、「傲慢な信頼」(pp423)とみなされてきた、といいます。
 そして、パレーシアのネガティブな解釈は修徳主義と結びつき、「神への恐れと畏敬による服従においてのみ」、「誘惑や試練を通した疑い深い自己の解読というかたちにおいてのみ」自己の浄化や救済は成立しているとします。というのは、この反パレーシアは「死のことも」「罰のことも考えない」ことによって「神への畏怖から、つまり、死の瞬間に起こることへの恐れや最後の審判への恐れや最後の審判への罰への恐れから、身を引き離してしまうから」危険と認識された、とフーコーは言います(同書 pp421-3)。

フランスのコンクにあるロマネスク期の教会:サント・フォア 教会正面の彫刻に中央にキリスト、向かって左は天国。右は地獄。地獄の恐ろしさを彫刻によって表現し「神への畏れ」を強調し、ポジティブな「神への信頼」を表すパレーシアを封じ込めようとしたか。このページのトップ画像はこの写真の地獄部分の拡大(右下)。著者撮影

 それゆえネガティブなパレーシアの特徴として、「神を恐れないこと」「自己に対して必要とされる不信を抱かぬこと」「世界に対して不信を抱かぬこと」に対して否定をします。
 そして、この反パレーシアは司牧権力につながるとしています。司牧権力、修道院規則、贖罪規定書、そして告白・告解の制度、自己の放棄と中世において結びついていく。そして大きな結論として「服従のあることころには、パレーシアはありえない。」

 その続編として反パレーシアの「告白」を描いたものが「性の歴史 第4巻「肉の告白」」のエクソモロゲーシス(コンフェッシォー)ではないか。エクソモロゲーシスは一見、信仰告白であるので正直に告白するという面ではパレーシアに似ているが、エクソモロゲーシスは服従そして自己放棄を前提とした修道会の中の実践であるので政治的な真理をもとにした行動がともない、何らかの変化に自らかかわるパレーシアとは相容れない概念である。ただし、フーコーが生きていたらパレーシアとコンフェッシォーのかかわりについて新たなスポットライトを当てたかもしれない。というのはフーコーはエクソモロゲーシスの研究を終えた後、パレーシアを「発見」したので、「全部やり直さなければならない」と出典は失念しましたが言っており、キリスト教のパリレーシアは旧約聖書と新約聖書の該当箇所を指摘して次年度のテーマと述べて終わってしまっている。
 一旦まとめると、このような反パレーシア的な抑圧的な雰囲気のなかで「神への信頼という」パレーシア的なポジティブな極が「危険」であると批判される困難にも関わらず生き延びたものが神秘主義と意義づけることができます。
 神秘主義の系譜としてニュッサのグレゴリウス、偽ディオニシオス、ベルナール、クザーヌス、ヒルデガルド、エックハルトなど名前を挙げられそうです(すいませんほとんど未読です)。神秘主義にも神とどのように合一するのかいろいろ実践は分かれてくるのかもしれません。ベルナールは礼拝中に聖母マリアから母乳をかけられたとして法悦に入っていますが、これはベルナールだからこそ異端に問われなかったのでしょうか。政治的な動きを調べたいですね。
 ではこのようなネガティブな反パレーシアが体制を固めていったときに,どのようにポジティブなパレーシアは居場所を確保したのでしょうか?フーコーは、キュニコス的な要素を持った修道士:ドミニコ会、フランチェスコ会によって政治的なパレーシアは維持され、彼らが反制度的キュニコス主義、反教会的動きをとった、と考えています(pp 224, 230)。アガンベンによればローマ=カトリックはフランチェスコ会を異端とするかどうか決めかねた上、異端にはしなかった、としています(いと高き貧しさ、みすず書房、上村忠男 (翻訳), 太田綾子 (翻訳)、2022、p123)。キュニコスはディオゲネスに起源を持つ犬儒派と言われる哲学の一派。設立後もキュニコス的側面は維持し続けたようです。
 さらにフーコーはそのような流れは宗教改革前夜から最中にかけて、プロテスタントの宗教改革の内部そのもの、カトリックの対抗宗教改革の内部においても感じ取られた(真理の勇気pp 231)、としています。しかしこれは図式的すぎて、注にも根拠は示されていません。宗教改革推進派にキュニコス派の修道士は合流したのかどうか、あるいは,ルターらに影響を与えた、などこれも文献的な根拠をさがす必要があります。すこし調べてみましょう。

 まず、宗教改革ではプロテスタント派は教会や教皇を通さず、聖書のみで神と直接やりとりできると主張してカトリックと抗争が始まりました。ルターは教文館のキリスト教神秘主義著作集の11巻にも入ってますので神秘主義として良さそうです。この時、世俗の権力もカトリックに抜かれなくてよくなったことを喜んだとか。それだけ贖宥状と煉獄の金のカラクリが詳らかにされカトリックの権威が落ちてしまっていたのでしょう。長上に絶対服従のカトリックでは組織の自浄作用は働かないでしょう。どこにでもある話です。
 ルターやカルヴァンはパレーシアしたと言っていいのかどうかフーコーも明言は避けていますので検討する必要がありそうです。ではルターの反教会の発想がどこから来たのか。アウグスチヌ修道会は関係あるのか。キュニコス的面はあったのでしょうか?
 キリスト教神秘主義著作集11巻、金子晴勇、竹原創一、教文館、2001年の結論から引用すれば、ルターの神秘主義の要素は「聖書解釈」「花嫁神秘主義」「ベルナールへの傾倒」「偽ディオニシオスの肯定から否定へ」「「霊性」の学問としての神秘主義」「賛美と呻きの同時性」「フミリタスによる神との一致」pp125-145.の要素があるとされる。
 さらに同書の総説によれば、「ドミニク会の中から生まれてきたドイツ神秘主義は14世紀のエックハルトによって創始されたのであるが、スコトゥスのトマス批判によって打撃を受けたドミニク会を新プラトン主義によって再建しようとした試み」pp460。「中世盛期の修道院改革運動を起こしたラディカルなキリスト信仰、たとえば「無一物のキリストに無一物になって従う」(nudus nudum Christum sequence)と言うスローガン、また絶対的な清貧の理念、さらに平信徒に広く行き渡っていた敬虔と信心などが神秘主義の背景にあって、これが内面化されて、現世否定と自己否定の態度を生み出している」pp460。つまりプロテスタントにって全て過去が否定されているわけでなくキュニコスの要素を持つ神秘主義が生き残っていたようでさらに調べていく甲斐がありそうです。

 それで、ようやく近代。フーコーの「性の歴史1巻」に提示された18から19世紀までもどれます。告白により性を語ることが強要され、それが精神分析に受け継がれることでますます告白の技法は広まり、また、性が学問にもなることで、性は形を整え近代の社会体制に吸収されていった、という図式を描いています。性を語ってもそれはタブーを犯したわけでもなんでもなく社会体制が望んだそのままをしていることになるという逆説が、反逆したつもりが体勢と同じことをしているという逆説であったことを「性の歴史1巻」で暴き社会にインパクトを与えました。

 ピエール・ロザンヴァロンが「良き統治 大統領制化する民主主義」みすず書房2020年(フランス初出2015年)において第4章信頼に基づく民主主義 2節 真実を語ること(pp299〜) でパレーシアをフーコーも持ち出しながら過去の経緯も触れつつフランス革命から現代までを論じている。1987年「国籍委員会」2003年「スタジ委員会」2000年「退職者会議」など。「この言語は、あらゆる現実は意図によって生じており、世界は意図によって支配されていると言う認識と結びついている。この場合、世界を変えるという発想は、異なる世界をもたらすかもしれない別の意図を押し付けるために論戦を交わすことに存する」と総括している。アニー・エルノーにも言及しています。
 今日のヨーロッパはウクライナ問題、移民問題、国家や自治体破産問題などさまざまな問題があり右派が台頭しています。フーコーあるいはサルトルやドゥルーズ、ボーヴォワールならどのように言論活動をしながら活動していくでしょうか。はたして私たちもそこに共感できるでしょうか。

 さて、宗教的キュニコス的態度と別にフーコーは1984年2月29日の講義でキュニコスの後裔として、芸術家、革命政治家をあげています(pp231)。ボードレールのダンディズム、サミュエル・ベケット、バロウズなど(pp237)。ドストエフスキーとロシア・ニヒリズム、ヨーロッパ・アメリカのアナーキズム。これが「性の歴史第二巻」冒頭の「好奇心」「自己の自己からの離脱」につながり、「一つの芸術作品としての人生」というテーゼになってきます。

 私も一つあげましょう。歌手のマドンナはどうでしょうか。現在はカバラ教徒とのことですが。マドンナの歌詞についてこのサイトで何度か取り上げましたが、カトリックとして出発したマドンナはカトリック教会に反パレーシアを感じ取り、十字架に自ら貼り付けされ歌うなど、やりすぎだろと思わないでもないですが、カトリックを激怒させパレーシアパフォーマンスに成功していると考えられます。ライク・ア・バージンやライク・ア・プレイアー、アイム・ア・シナーなどの歌詞を読むと自由に神と交信する神秘体験を大事にし、告白後もありのままを神に受け入れて欲しいと考えているからです。

カトリック教会によるカナダでの先住民の子供達への抑圧と教皇の謝罪が報道されましたが、これなど司牧権力、規則の発達による抑圧が行われていたと容易に想像できます。

 フーコー自身も無傷ではいられません。社会に向かってパレーシアしてブランド化できていましたが味方にも敵を作ってしまい、チュニジア時代の児童買春についてレポートされてしまいました。どこかの芸能事務所のようです。はっきりした証拠もなく被害者が名乗り出ているわけでもなさそうです。亡くなってる本人に確認をしようがないのでどこまで確かかはわかりませんが、権威を持ってしまったフーコーブランドを貶める勢力はちゃんと身内にも存続していると考えられ、これぞ「権力のあるところに抵抗はある」を地で行った展開となりました。
 後半は調査が追いつかずわからないことばかり書いてしまいましたが、調査してわかりましたらまとめてみます。
 以上まとめると、パレーシアを時代を追って継続性に注意しつつまとめてみた。パレーシアに対して、いわゆる反パレーシアという、パレーシアに懐疑的な見方がある。それは修道院の中の「服従」「自己放棄」「自己の解読」といった規律と相入れなかった。カトリックの修道院では神と向き合うには「教会」「教皇」を通す必要がある。司牧規則と告白によって人々を統治した。神秘主義はそのような雰囲気の中、キュニコス派の生の実践を継承する形で生き延びた。今日では形を変え、宗教や政治の革命家、芸術家などにその別の生を希求するように生き延びた。我々は自らの生を解体し、芸術作品として生を形作っていくべきである。

Life is mystery.

Post Script
一年前からの原稿を加筆改訂しようと思い立ってからシリーズの原稿を整えるのに1ヶ月以上かかってしまった。ロマネスクへの偽ディオニシオスからシュジェール(スゲリウス)への美学の展開を追うつもりが思想に向かってしまった。言い訳であるがルターに興味があった、というかプロテスタントに関係があった。ロマネスクの聖像破壊はカルヴァン一派が大きいようである。そしてフランス革命の時でも破壊された。しかしながら、メリメやヴィオレル・デュックによる修復、それもフランス革命を讃えるプログラムであることをKirk Ambroseが論じている。そう考えるとはじめに神秘主義の通史をフーコーの本をつなぎ合わせてやってみたくなった。中山氏による同様な試みがあるが、素晴しい解説である「賢者と羊飼い」(筑摩書房)はアウグスティヌスで止まってしまっているしパレーシアとエクソモロゲーシスについては両方同時に触れていない。また他の論考は統治であるとか生権力であったはず。そうではなくてパレーシアによる通史をスケッチでいいのでやってみたかった。スケッチを描いてみてますます疑問が湧く。例えばフーコーはおそらく意図的に中世神学や哲学を避けている。1978年に日本にやってきた時に新倉俊一先生がアベラールの話をふっても乗ってこなかった(現代思想1978. 6-7 pp77)。ライバルが多すぎるからではないだろうか。
 中世神学や哲学にパレーシアはラテン語に概念が拡散しているので追跡がしにくい。フーコーだったら1985年の講義をどう展開しただろうか?幸か不幸かフーコーはもういないので、それぞれがフリーシンカーとして思索が可能である。自己からの離脱ができるような、自己を解体するようなそんな思索が今後できるのか楽しみである。

[ChatGPTによる真理の勇気シリーズ]

1 前振り 偽ディオニシオスをすこし機械学習変換

2 パレーシア、特に聖書のパレーシアと神秘主義への展開の仮説


3 偽ディオニシオスのギリシア語の日本語への機械変換

4 エリウゲナによる、偽ディオニシオスのパレーシアのギリシア語からラテン語への翻訳

5 ChatGPTによる真理の勇気 その4 エリウゲナの翻訳と修道院規則からパレーシアを思索する

【ネット上で読める参考文献】

キュニコス主義の生活理想 藤井義夫 一橋論叢 1960年 44巻 3号

性の歴史 肉の告白 書評 宇野重規 / 朝⽇新聞掲載:2021年02月20日

ミシェル・フーコー「真理の勇気」レビュー mokoheiの読書記録帳2015-08-02

訳者解説 慎改康之 『真理の勇気』 (筑摩書房、2012 年)所収 明治学院大学 2012/03/16

エートスの陶冶とは何か? 年報政治学 乙部延剛 著 · 2019



http://repository.fukujo.ac.jp/dspace/bitstream/11470/717/1/06寺園喜基(P45-54白).pdf



(*) 砂漠の師父
wikipedia フランス語版より

Les Apophtegmes des Pères du désert (Apophtegma Patrum ou Apophthegmata Patrum en latin, « Paroles des Pères ») sont un ensemble de préceptes, d'anecdotes et de paroles, attribués aux ermites et aux moines qui peuplèrent les déserts égyptiens au ive siècle. Ces écrits sont partie intégrante de la Tradition chrétienne. Les apophtegmes illustrent la vie spirituelle, l'éthique et les principes ascétiques et monastiques des Pères du désert. Transmis oralement en copte, ils furent mis par écrit aux ive et ve siècles et compilés en grec dans la première moitié du ve siècle par Pallade dans son Histoire lausiaque et Théodoret dans son Histoire religieuse. Rufin proposa une traduction latine des apophtegmes dans son Histoire des moines d'Égypte. Les recueils connurent un grand succès et furent traduits dans presque toutes les langues de l'Église ancienne et médiévale, notamment en copte, arménien, amharique et syriaque. Ces textes, qui sont considérés comme un classique de la littérature chrétienne des premiers siècles, nourrirent la spiritualité monastique du christianisme médiéval oriental et occidental.

ChatGPTによる上記の日本語変換
「『荒野の父たちの言葉』(ラテン語ではApophtegma PatrumまたはApophthegmata Patrum、通称『父たちの言葉』)は、4世紀にエジプト砂漠に住んでいた隠者や修道士たちに帰せられる教訓、逸話、言葉の一連の集成です。これらの文書はキリスト教の伝統の一部であり、荒野の父たちの霊的な生活、倫理、苦行的・修道的原則を示しています。最初はコプト語で口承され、4世紀と5世紀に書き留められ、その後、5世紀前半にパラディウスとテオドレトによってギリシャ語にまとめられました。ルフィヌスはこれらの言葉のラテン語訳をエジプトの修道士の歴史に含めました。これらの文集は大いに成功し、ほぼすべての古代および中世の教会の言語に翻訳され、コプト語、アルメニア語、アムハラ語、シリア語などに翻訳されました。これらのテキストは初期キリスト教文学の古典と見なされ、東洋と西洋の中世のキリスト教修道主義に影響を与えました。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?