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ChatGPTによる真理の勇気 その4 エリウゲナの翻訳と修道院規則からパレーシアを思索する

 前回は、3つのパレーシアのラテン語翻訳の訳しわけを検討し、一番初めのラテン語表現(Audebit autem et hoc dicere vera ratio 真の理性はこれを言うことにも挑戦するでしょう。)が,際立っていることを見ました。
 その内容も「彼自身がすべてのものの原因であり、善の卓越性によってすべてを愛し、すべてを創造し、すべてを包み込み、すべてを変え、また最高の最高の神聖な愛です。」といかにもな神の賛美です。どうしてパレーシアの原義である「身の危険を感じながらでも真理をいう」を意識した「挑戦」のような政治的概念をラテン語に含ませてきたのでしょうか?「神への信頼」の宗教的パレーシアとしては当たり前と考えられます。ところがある文書と付き合わせるとそうも言ってられないのです。
 と言うところで終わりました。ある文書とは?今回はそれを議論しましょう。

 その文書は当時の修道院規則です。
 ベネディクト会の修道院規則は西暦540年ごろの成立で、平凡社の「中世思想原典集成」第5巻に「戒律」pp245 として翻訳されています。その冒頭によると、
「もしあなたが誰であれ、真実の王であらせられる主キリストに仕えるために、自分の意志を捨て服従という最も堅固で輝かしい武器を取るならば、次の私の言葉を今あなたに伝えたい。」

「服従しろ」これは神への服従はもちろんのこと,規則の細則に書いてあるのですが,修道院組織の長上や先輩への服従なのです。つまり組織の言うとおりにしろと、言っている。組織への服従は美徳なのです。
 そして「祈れ」「悪い行いをしないようにしろ」「主より授かった良い贈り物を用いて主につかえろ」と続きます。
 そして、「怒れる父がいつの日かその子たちの家督を剥奪し、また恐るべき主が私たちの犯した悪行のために怒り、主に従い栄光に至ることを拒む私たちを、悪い僕として永遠の罰に処せられないように努めなければならない。」と。
<<*末尾にラテン文へのリンク、ラテン文の抜粋とそのChatGPT訳を添付します。>>

フランスのロマネスク期のモワサックにあるサンピエール教会のタンパン彫刻。黙示録の幻視に満ちた恐怖のキリストである。キリストや神が今日なのは旧約聖書とヨハネの黙示録の影響でしょうか。映画「薔薇の名前」にも登場
<https://quartetgrape.wordpress.com/hypomnemata_of_romanesque/moissac/>
著者による写真


 もう少し段落を下ると、「「真実の、永遠の生命を欲するならば、悪言を慎み、虚言を口にしてはならない。悪を避けて善を行い、平安を求めてこれを追求しなさい」 [詩三四:一四-一五] 」と。
 真実を言うパレーシアとは逆の態度です。真実を求めるなら「悪言」「虚言」を言ってはいけない。つまり真実を求めて発言しても、それは「悪言」「虚言」とみなされ得る。
 このような修道戒律の系譜はディダケーから始まり、ポンティコス、アウグスティヌス、バシレイオスなど枚挙にいとまがありません(いずれも中世思想原典集成で読めます。というか読みました。)。
 時代は下りますがアベラールも修道の核心の一つに沈黙をあげている。他の二つは禁欲と清貧です。アベラールは去勢される前は強烈な自己顕示欲と学問への野心を示し饒舌に相手を攻撃していたのに、修道院で規定通り粗末な衣服を着て修道に従っていたようである。
 ところでアベラールも修道院長をして苦労していたのが、エロイーズとの書簡に現れている。現代からの再構成したものになるが、ウンベルト・エコの「薔薇の名前」の小説や映画を見ると修道士と言ってもかなりいかがわしいものがたくさんいて、そういうものを統治するには、神の愛を信頼などと言ってられず、言うこと聞けくらいでちょうどよかったのかもしれない。
 いずれにせよ、このように畏怖すべき神はロマネスク美術に黙示録のイメージが表徴の一つとして現れるだろう。リエバナのベアトゥスのサン・スベールの写本、薔薇の名前の映画でコピーされたモワサックのタンパン、オータン、ベズレーのそれら。いずれも厳しいキリストです。
 このように至る所で畏怖すべき神の下での沈黙が修道院の実践。これがネガティブなパレーシア=反パレーシアとでも呼ぶべきものです。
 このような神を畏怖せよという雰囲気の中でエリウゲナは翻訳を担当したことを考えてみましょう。修道院規則と真っ向から対立する4.10「彼自身がすべてのものの原因であり、善の卓越性によってすべてを愛し、すべてを創造し、すべてを包み込み、すべてを変え、また最高の最高の神聖な愛です。なぜなら、存在するものの善を適切に行動する存在である愛は、卓越性において最高の存在に先立つもの」を翻訳することになったわけです。
 エリウゲナはパレーシアを縮減せずに翻訳しました。このことは、神と神の善について述べるには「真の理性」とともに「言うことにも挑戦する」強度や批判された時の防御力や耐性が必要であろう、そしてそれを持っていることを表明していると考えられるわけです。
 このように戒律に反する内容を含みながら文書が異端であると認定されなかったのは、ひとえに、後に「偽」とバレたわけですが使徒時代のディオニシオス・アレオパギテスと名乗って、それが信じられていたからだと考えると、偽造文書の偽造手口についても興味深いものがあります。
 実際、上記のエリウゲナのwikipediaによると、翻訳は「シャルル2世の依頼によるものであり、現代にも伝わっている。しかしアレオパギタの著作の持つ汎神論性が再びエリウゲナの評判を落とすことになる。教皇ニコラウス1世は自分の許可なくこのような翻訳が出たことに腹を立て、シャルル2世にエリウゲナのローマ召喚を命じ、宮廷からの解雇を求めた。」とのこと。とてもロマネスク期の教会・修道院の中では自由にものをいえる雰囲気ではなかったようです。
 この時のエリウゲナが皇帝につき、同じ組織の教皇につかなかったのは、極めて政治的な動き方です。ザクセン侯に庇護されたマルティン・ルターを思い出します。教皇という権力に偽ディオニシオスの文書と皇帝の威をかりてパレーシアをした。これこそ政治的なパレーシアといえます。こうしてみると偽ディオニシオス文書を読むことも当時の霊性からみると危険文書を読むことに他ならなかったと考えられます。そのような危険を犯して皆は読んだでしょうか?しかし偽ディオニシオスの美学への導入についてはトマス・アキナスが多数引用していますのでその魅力についてさらなる検討が必要です。
 こうして考えるとオリジナル著者もまた身の危険を感じて偽名にしたのかもしれません。と言うのは5世紀にはすでに修道院が発達してきたようですので。改めて「神秘神学」にπαῤῥησιαを検索かけましたが見つかりませんでした。どこでも使う言葉ではないようです。してみると、これは「神名論」のここを読んで,と言う偽ディオニシオスの高貴なる絶叫なのかもしれません。そうであるならなおさらプロクロスの文書も調べないとスッキリしませんね。
 さて、その後の神秘主義の系譜ですが、教文館の「神秘主義著作集」では1巻はニュッサのグレゴリウスとこの偽ディオニシオスですが、2巻はベルナールです。つまり5世紀から9世紀にかけた文書の次は12世紀まで飛んでしまいます。その後はご存知のとおりです。この話題については次回にフーコーの本を再構成して議論したいと思います。次はほとんどChatGPTを使いません。
 以上、ギリシア語もラテン語も知らないのに、ChatGPTを使ってフーコーの仮説を展開してみました。
 ギリシア語やラテン語知っている方は眉を顰めているかもしれませんし、フーコーを知る人にも雑すぎるだろ、と言われそうです。でもフーコーの性の歴史第2巻の「好奇心」に免じて許してください。ChatGPTで翻訳されていない文書を覗けると言うのははドイツ語で聖書を読めることになったことと同じではありませんか。皆さんもブラウザやSNSアプリで翻訳をよく使っていませんか。

 最後にまとめると、神秘主義においてパレーシアは、その居場所を確保するために強い語調をもって翻訳されている。「神を畏怖する」反パレーシアの雰囲気の中で、皇帝に命ぜられとはいえ名義をつけることになったエリウゲナはパレーシアの意図を減縮せず、古代からのメッセージに共鳴し受けてたち、パレーシアの意義を生かした翻訳をし、「善の卓越性によってすべてを愛し、すべてを創造し、すべてを包み込み、すべてを変え、また最高の最高の神聖な愛」をもつ神の提示をした。それはエリウゲナにとっても別種の生を展開する偽ディオニシオスの論旨に好奇心を持ち、仲間に知らせたい勇気があったからではないか。政治的かつ宗教的にも「真理を述べる挑戦」であるパレーシアを実践した。この翻訳箇所を読んでいると千年以上前の「真理の勇気」を感じる。
 次回はフーコーの講義のまとめをしてこのパレーシア部分の翻訳の総括をしたいと思います。
Life is mystery.

[ChatGPTによる真理の勇気シリーズ]

1 前振り 偽ディオニシオスをすこし機械学習変換

2 パレーシア、特に聖書のパレーシアと神秘主義への展開の仮説


3 偽ディオニシオスのギリシア語の日本語への機械変換

4 エリウゲナによる、偽ディオニシオスのパレーシアのギリシア語からラテン語への翻訳

[ノートで読める他の著者によるエリウゲナ]

<<参考>>

ベネディクト会 戒律 全73章から抜粋 (以下アボットは修道院長のこと)

https://la.wikisource.org/wiki/Regula_sancti_Benedicti

Obsculta, o fili, præcepta magistri, et inclina aurem cordis tui et admonitionem pii patris libenter excipe et efficaciter conple, ut ad eum per oboedientiæ laborem redeas, a quo per inoboedientiæ desidiam recesseras. Ad te ergo nunc mihi sermo dirigitur, quisquis abrenuntians propriis voluntatibus, Domino Christo vero Regi militaturus oboedientiæ fortissima atque præclara arma sumis. In primis, ut quidquid agendum inchoas bonum, ab eo perfici instantissima oratione deposcas, ut qui nos iam in filiorum dignatus est numero conputare, non debet aliquando de malis actibus nostris contristari. Ita enim ei omni tempore de bonis suis in nobis parendum est ut non solum iratus pater suos non aliquando filios exheredet, sed nec ut metuendus dominus inritatus a malis nostris, ut nequissimos servos perpetuam tradat ad poenam qui eum sequi noluerint ad gloriam. Exurgamus ergo tandem aliquando excitante nos Scriptura ac dicente: Hora est iam nos de somno surgere, et apertis oculis nostris ad deificum lumen adtonitis auribus audiamus divina cotidie clamans quid nos admonet vox dicens: Hodie si vocem eius audieritis, nolite obdurare corda vestra.

ChatGPT訳
「聞け、子よ、師の教えを、そして心の耳を傾け、神聖な父の忠告を喜んで受け入れ、それを効果的に実行せよ。従順さの労働によって、不従順さの怠慢から離れ、従順さによって彼に帰るためである。あなたに向けられている言葉は、自分の意志を捨て、主キリストの王に仕える決意をする者です。まず第一に、何事をしようとしても、最も熱心な祈りで完成させるように願い求めなさい。私たちを既に子供たちの数に数えてくださった方は、私たちの悪い行いに対して悲しむべきではありません。したがって、彼にはいつも私たちに従順であるべきであり、怒りっぽい父は、私たちの悪行に怒ることはないのです。その代わりに、私たちの善くない行いに刺激されて、彼が私たちを永遠の罰に渡すことを望まない、忠実なしもべたるものために、私たちは彼に常に従うべきです。ですから、聖書が私たちを目覚めさせ、次のように言っているのを待たずに立ち上がりましょう:『今はすでに眠りから目覚める時です。』私たちは神聖な光に目を覚まし、神の言葉に耳を傾け、私たちに言われていることを日々聞きましょう。『きょう、その声を聞くなら、心をかたくなにしてはいけません。』」

第2章
Caput 2:

Qualis debeat esse abbas

Abbas qui præesse dignus est monasterio semper meminere debet quod dicitur et nomen maioris factis implere. Christi enim agere vices in monasterio creditur, quando ipsius vocatur pronomine, dicente apostolo: Accepistis spiritum adoptionis filiorum, in quo clamamus: Abba, Pater. Ideoque abbas nihil extra præceptum Domini quod sit debet aut docere aut constituere vel iubere, sed iussio eius vel doctrina fermentum divinæ iustitiæ in discipulorum mentibus conspargatur, memor semper abbas quia doctrinæ suæ vel discipulorum oboedientiæ, utrarumque rerum, in tremendo iudicio Dei facienda erit discussio. Sciatque abbas culpæ pastotis incumbere quidquid in ovibus paterfamilias utilitatis minus potuerit invenire. Tantumdem iterum erit ut, si inquieto vel inoboedienti gregi pastoris fuerit omnis diligentia adtributa et morbidis earum actibus universa fuerit cura exhibita, pastor eorum in iudicio Domini absolutus dicat cum Propheta Domino: Iustitiam tuam non abscondi in corde meo, veritatem tuam et salutare tuum dixi; ipsi autem contemnentes spreverunt me, et tunc demum inoboetientibus cursæ suæ ovibus poena sit eis prævalens ipsa mors.・・・・・
Ergo æqualis sit ab eo omnibus caritas, una præ beatur in omnibus secundum merita disciplina. In doctrina sua namque abbas apostolicam debet illam semper formam servare in qua dicit: Argue, obsecra, increpa, id est, miscens temporibus tempora, terroribus blandimenta, dirum magistri, pium patris ostendat affectum, id est indisciplinatos et inquietos debet durius arguere, oboedientes autem et mites et patientes, ut in melius proficiant obsecrare, neglegentes et contemnentes ut increpat et corripiat admonemus. Neque dissimulet peccata delinquentiump; sed ut, mox ut coeperint oriri, radicitus ea ut prævalet amputet, memor periculi Heli sacerdotis de Silo. Et honestiores quidem atque intellegibiles animos prima vel secunda admonitione verbis corripiat, inprobos autem et duros ac superbos vel inoboedientes verberum vel corporis castigatio in ipso initio peccati coerceat, sciens scriptum: Stultus verbis non corrigitur, et iterum: Percute filium tuum virga et liberabis animam eius a morte. Meminere debet semper abbas quod est, meminere quod dicitur, et scire quia cui plus committitur, plus ab eo exigitur. Sciatque quam difficilem et arduam rem suscipit, regere animas et multorum servire moribus, et alium quidem blandimentis, alium vero increpationibus, alium suasionibus; et secundum unuscuiusque qualitatem vel intellegentiam, ita se omnibus conformet et aptet ut non solum detrimenta gregis sibi commissi non patiatur, verum in augmentatione boni gregis gaudeat.

修道院長の資質

修道院を率いるにふさわしい修道院長は、常に行動によって「大いなる者」としての名前を実現することを覚えておくべきです。修道院でキリストの役割を果たすと信じられており、それが聖書の言葉によって証明されています。使徒が言うように、「あなたがたは子供として受け入れられたので、父なる神に対して『アッバ、父』と叫びます。」したがって、修道院長は主の命令を超える何かを教えたり、設定したり、命じたりすべきではなく、彼の命令や教えは、弟子たちの心に神聖な正義の酵母として広まるべきです。修道院長は、彼の教えと弟子たちの従順さのため、それぞれの行為について神の恐れの審判の下で説明しなければなりません。修道院長は、義務が少ない場合でも、その家族の羊群にとって有益である限り、その欠点に対処しなければなりません。同様に、騒がしいまたは従順でない群れに対して、牧師が最大の努力を払い、その行動に対して完全な注意を払った場合、主の審判の下で、その牧師は預言者と共に主に言うことができます。「私は心の中であなたの正義、あなたの真実、あなたの救いを隠さなかった。しかし、彼らは私を軽蔑し、拒否しました。そして、従順でない羊にとっては、彼らの反抗に対する罰が最終的に死よりも優勢であるでしょう。」・・・・・
したがって、アボットはすべての者に対して同じように愛を持ち、誰に対してもその修道院の規律に基づいて平等に扱わなければなりません。アボットは自身の教えにおいて、使徒的な方法を常に守るべきであり、それには「責め、勧め、戒め」とあるように、異なる状況に合わせて異なるアプローチを取ることが必要です。具体的には、反抗的で騒々しい者には厳しく戒めを与え、従順で柔和で忍耐強い者には改善を促すように勧め、怠惰で軽薄な者や軽蔑的な者には戒め、叱責しなければなりません。アボットは罪を犯した者の罪を隠さず、すぐに取り組むべきです。罪が現れたら、根本的にそれを取り除くべきであり、エリの祭司がシロでの危険を念頭に置いていることを覚えておくべきです。良心的で理解力のある人々に対しては、最初か2回目の忠告で済ませることができますが、不良で頑固で高慢で従わない者に対しては、罪が始まった直後から身体的な罰を与えるべきです。ここで、聖書の言葉を思い出すべきです。「愚か者は言葉で訓練されない」とあり、また「あなたの子供を杖で打て。それによって、彼の魂を死から救うであろう」とも書かれています。アボットは自分が何者であるか、自分が何を言っているか、そして自分に何が求められているかを常に心に留め、自分に課せられた責任がどれほど難しいものであり、魂を導き、多くの人々の習慣に奉仕することがどれほど困難であるかを理解するべきです。アボットは異なる個人の質や知識に合わせて異なるアプローチを取り、それぞれに合わせて柔軟に適応し、自分が委ねられた群れに損害を与えずに、むしろ良い群れを増やすことに喜びを感じるべきです。

第4章
Quæ sunt instrumenta bonorum operum
In primis Dominum Deum diligere ex toto corde, tota anima, tota virtute. Deinde proximum tamquam seipsum. Deinde non occidere. Non adulterare. Non facere futum. Non concupiscere. Non falsum testimonium dicere. Honorare omnes homines. Et quod sibi quis fieri non vult, alio ne faciat. Abnegare semetipsum sibi ut sequatur Christum. Corpus castigare. Delicias non amplecti. Ieiunium amare. Pauperes recreare.Nudum vestire. Infirmum visitare. Mortuum sepelire. In tribulatione subvenire. Dolentem consolari. Sæculi actibus se facere alienum. Nihil amori Christi præponere. Iram non perficere. Iracundiæ tempus non reservare. Dolum in corde non tenere. Pacem falsam non dare. Caritatem non derelinquere. Non iurare ne forte periuret. Veritatem ex corde et ore proferre. Malum pro malo non reddere. Iniuriam non facere, sed et factas patienter sufferre. Inimicos diligere. Maledicentes se non remaledicere, sed magis benedicere. Persecutionem pro iustitia sustinere. Non esse superbum. Non vinolentum. Non multum edacem. Non somnulentum. Non pigrum. Non murmuriosum. Non detractorem. Spem suam Deo committere. Bonum aliquid in se cum viderit, Deo adplicet, non sibi. Malum vero semper a se factum sciat et sibi reputet. Diem iudicii timere. Gehennam expavescere.Vitam æternam omni concupiscentia spiritali desiderare. Mortem cotidie ante oculos suspectam habere. Actus vitæ suæ omni hora custodire. In omni loco Deum se respicere pro certo scire. Cogitationes malas cordi suo advenientes mox ad Christum adlidere et seniori spiritali patefacere.Os suum a malo vel pravo eloquio custodire. Multum loqui non amare. Verba vana aut risui apta non loqui. Risum multum aut excussum non amare. Lectiones sanctas libenter audire. Orationi frequenter incumbere. Mala sua præterita cum lacrimis vel gemitu cotidie in oratione Deo confiteri. De ipsis malis de cetero emendare. Desideria carnis non efficere. Voluntatem propriam odire. Præceptis abbatis in omnibus oboedire, etiam si ipse aliter - quod absit - agat, memores illud dominicum præceptum: Quæ dicunt facite, quæ autem faciunt facere nolite. Non velle dici sanctum antequam sit, sed prius esse quod verius dicatur. Præcepta Dei factis cotidie adimplere. Castitatem amare. Nullum odire. Zelum non habere. Invidiam non exercere. Contentionem non amare. Elationem fugere. Et seniores venerare. Iuniores diligere. In Christi amore pro inimicis orare. Cum discordante ante solis occasum in pacem redire. Et de Dei misericordia numquam desperare. Ecce hæc sunt instrumenta artis spiritalis. Quæ cum fuerint a nobis die noctuque incessabiliter adimpleta et in die iudicii reconsignata, illa mercis nobis a Domino reconpensabitur quam ipse promisit: Quod oculus non vidit nec auris audivit, quæ præparavit Deus his qui diligunt illum. Officina vero ubi hæc omnia diligenter operemur claustra sunt monasterii et stabilitas in congregatione.

善行の道具は何ですか?

まず第一に、全心、全霊、全力で主なる神を愛することです。次に、自分自身と同じように隣人を愛することです。そして、殺してはいけません。姦淫してはいけません。盗んではいけません。欲望してはいけません。偽りの証言をしてはいけません。すべての人々を尊重しなければなりません。他人にしてもらいたくないことを他人に対してもしてはいけません。自己を拒絶し、キリストに従うために自己を捧げなければなりません。肉体を懲らしめなければなりません。快楽に溺れてはいけません。断食を愛さなければなりません。貧しい人々を支援しなければなりません。裸の者に着物を与えなければなりません。病人を訪ねなければなりません。死者を埋葬しなければなりません。困難な時に助けなければなりません。傷ついた人を慰めなければなりません。世俗の行動から自分を遠ざけなければなりません。キリストの愛に何も優先してはいけません。怒りを抱かないようにしなければなりません。怒りを引き延ばしてはいけません。心の中に詐欺を秘めてはいけません。偽りの平和を提供してはいけません。愛を捨ててはいけません。偽りを誓ってはいけません。心からと口から真実を語らなければなりません。悪を悪で報いてはいけません。不正を行ってはいけませんが、受けた不正は忍耐強く受け入れなければなりません。敵を愛さなければなりません。自分を悪く言う者に悪口を返してはいけませんが、むしろ祝福を送らなければなりません。正義のために迫害に耐えなければなりません。高慢であってはいけません。暴力的であってはいけません。過度に食べてはいけません。眠りすぎてはいけません。怠けてはいけません。不平不満を言ってはいけません。人を中傷してはいけません。自分の希望を神に委ねなければなりません。自分に何か良いことがあった場合、それを自分ではなく神に帰するべきです。一方、自分が悪いことをした場合、それを自分に帰するべきです。審判の日を恐れなければなりません。地獄を恐れなければなりません。永遠の命をすべての霊的な願望で切望する。毎日死を警戒し心にとどめておく。自分の生活をいつも監視する。どこにいても神を見ることを確実に知る邪悪な考えが心に浮かんだらすぐにキリストに持ち込み、精神の指導者に打ち明ける。悪口や不道徳な言葉を避ける。多く話すことを好まない。無駄な言葉や軽薄な冗談を言わない。過度な笑いや誇大な笑いを好まない。聖書の聖句を喜んで聞く。祈りに頻繁に専念する。過去の罪を涙や嘆きと共に毎日神に告白する。そして、これらの罪を繰り返さないように努力する。肉の欲望に屈しない。自己の意志を嫌う修道院長の命令に従う。たとえ修道院長が別のことをしたとしても、主の命令に従う。イエスの言葉を覚えておく:「彼らの言ったことは行いなさい。しかし、彼らがすることは行わないなさい。」自分が聖人と呼ばれることを望まない。まず、真に聖なる生活を生きることが大切です。神の戒めを日々の行動で実践する。純潔を愛し、誰も憎まない。嫉妬心を抱かない。争いごとを好まない。高慢を避け、年長者を尊敬し、年少者を愛し、敵に対してもキリストの愛をもって祈る。夕陽の前に対立があった場合、平和に戻る。そして、神の慈悲を絶対に絶望しないでください。これらは霊的な修行の道具です。私たちが昼夜を問わずこれらを実行し、最終的に審判の日にそれらを主に献上すると、主は私たちに約束されたものを報いてくださるでしょう。「目は見たことがなく、耳は聞いたことがない、神が愛する者たちのために用意されているもの」です。この修行を精一杯実践する場所は修道院であり、共同体での安定性です。

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