トマス・アクィナス 神学大全 徳論における偽ディオニシオス その1
トマス・アクィナス「精選 神学大全1」岩波文庫が6月に出版された。抜粋になるが、中身を垣間見ることができるようになった。
まず、キリスト教でのお馴染みの概念「自己放棄、服従、自己鍛錬、自己浄化、自己救済、超越、告白」などを見出せるのか?また修道院規則、その実践、十字軍、異端へはどのように考えるのか?などこれらの文書に今回はなさそうだが今後出てくるのか楽しみである。
私には読めるほどの学識がないのが残念であるが、美学や神秘主義で興味を持っている、偽ディオニシウス(ディオニシオス)への言及があったのでそこから読んでみる。
偽ディオニシオスはキリスト教に新プラトン主義を持ち込み、中世やロマネスク美術にも影響を与えた、とU. Eco、Y. ChristeやM. F. Hearnは主張している。
はじめに「神学大全」中の「神名論」などへのインデックスを掲げます(見落としあると思いますが、見つけただけ。)
まず断っておきますが、下記事項はこのようなことに興味のある人向けで書いていますのでお許しください。また、興味があっても、よくわからないと言うのが普通ではないかと思います。白状しますが、私もトマス・アクィナスの翻訳が何を言っているかよくわかりません、引用先を読むのはそれを探るためです。インターネットと人工知能がそれを可能にしました。ギリシア語やラテン語を眺めるなんて、理系の私には無理でした。私は研究者出身なので自分で文章書くときに引用する以上、中身は確認します。逆に人の論文を読む時は引用論文にも目を通します。研究するという人にとっては専門外のことでも当たり前のことができるようになった、ということです。ここではその作業記録を兼ねています。多少役に立つこともあるのではないかと思います。
「神名論」の引用箇所
P. 102, 179, 253, 325, 380の5箇所発見
「天上位階論」の引用箇所
p. 78, 79, 83, 384 天使について議論など。
他に気になる引用として
ストア派:p443-444
プロティノス:p348-9, 352
徳と自己の節制(temperantia)の関係:導入部204
怒情及び欲情の理性による制御 208
今回は長くなるのでP102だけ議論します。
1 p102: 自然本性を保全することは神的摂理に属する
まず文庫本P102「第二部の第一部の第51問・第4項(2.1.51.4)」から引用させていただきます:
問い【神によって人間のうちに注入された何らかの習慣があるか】
仮説 いかなる習慣も神によって人間に注入されることはない。
習慣とは:訳註p474によると習慣habitusとしてトマスが挙げるのは「正義や節制などの倫理観や幾何学、倫理学の学知」とのこと。「人間は習慣を形成することによってまさしく自己を形成し、自己を神へと導く道を形成している」。訳者は習慣という言葉の復権を狙っているとも。
仮説の根拠として、神は万人に対して平等、当の事物の自然本性と合致する仕方、神によってある習慣が注入されるとしたら人間はその習慣によって多くの働きをなすことができる、など3つ挙げているが、その2つ目に神名論が出てくる:
「神はすべての事物において当の事物の自然本性と合致する仕方でその業を為す。」その理由としては「神名論」第4章PG3, 733Bに基づき 『自然本性を保全することは神的摂理に属する』を引用している。
2 筆者による引用箇所の確認と考察:
まず、引用のインデックスPG3, 733Bの意味であるが、PGはMigneのギリシア教父という意味。3なので3巻。偽ディオニシオスなので当たり。(気がつくのに3ヶ月ほどかかりました)
そして733はミーニュのスキャンされたページの番号。ミーニュの本そのものは大学などの専門的な図書館しかないだろうけどネットで見ることができる
<https://books.google.co.jp/books?redir_esc=y&hl=ja&id=PwQRAAAAYAAJ&q=733#v=snippet&q=733&f=false>
次にBであるが段落番号である。これはページ中央に割り振られている。左がギリシア語、右がラテン不語である。
ここから引用箇所がセクション33ということがわかる。
このページの翻刻であるがページをコピペすればOCRが効いている。
でも、こちらのページの方がスムーズ。
https://aquinas.cc/el/la/~DeDivNom.C4.L22.57
(引用元と引用先が同じサイトでややこしいが、トマスは(偽)ディオニシオスのサラケヌスによるラテン語翻訳版に注釈をつけているので)
ところが、この偽ディオニシオスのセクション33のラテン語はミーニュとは違う。ミーニュの訳は585ページにBalthasare Corderioとなっている。おそらく19世紀のもの。
aquinas.ccの偽ディオニシオスのラテン語はアクィナスの注釈付きなのでおそらくサラケヌスの訳。となるとミーニュのラテン語は一旦忘れてサラケヌスの方で考える。
このセクション33で該当箇所をみてもよくわからない。
3 トマス・アクィナスのラテン語 原典(神学大全)
仕方がないのでトマスの原典を<https://aquinas.cc/>からチェックした。すると
であった。ということで太字のdivinae providentiae est naturam salvareを探すと<https://aquinas.cc/el/la/~DeDivNom.C4.L22.57>にディオニシオスの4章セクション33に類似表現が見つかるはずである。探し方はnaturamとsalvareを縮めたりして盲滅法。divinae(神的)やprovidentiae(準備する)
すると、
が見つかる。やたらとprovi…の単語が多い。
ChatGPTで翻訳をかけると
となる。
一つ目の結論として、トマス・アクィナスは引用をそのまましているわけでなく改変している。
4 ラテン語の該当箇所の改変について
上記のことを再掲してまとめてみる:
サラケヌスによるラテン語翻訳原典
providentia uniuscuiusque naturae est salvativa
各自(人)の存在の神的摂理は救済的である or
各自(人)の自然本性の神的摂理は救済的である
uniuscuiusqueは「それぞれ、各自」
をアクィナスは引用にあたり
divinae providentiae est naturam salvare
稲垣訳:自然本性を保全することは神的摂理に属する
機械翻訳を改変:神の摂理は(人の)自然本性の救済である。
とestの位置も変えnaturaeの活用形(?)も変えてしまっている。
稲垣訳では救済を神的摂理と丸めている。
では、その改変の意味はなにか?まず自然という言葉の意味ですが、地球や宇宙などの自然を指しているわけではなく、そうではなくて、自然法との関係で人間が自然に生きる生き方を指しているようだ。なので、「神の摂理は人間の自然本性の救済である」と考えれば良いのではないか。してみるとトマス・アクィナスの改変はより直接、より強く、神が人間を「救済」することが謳われていると考えられる。
5 原典のギリシア語の意味はどうだろうか?
ところが、この該当箇所は、サラケヌスの翻訳バイアスがかかっている。元々の偽ディオニシオスはどのような意味で述べたのだろうか?自然はどのような自然なのだろうか?
該当箇所のギリシア語を掲げる:
該当箇所として
πρόνοια τῆς ἑκάστου φύσεως σωστικὴ
→(予知・計画(摂理))(the)(それぞれ)(自然や本性)(救済)
「各自然の摂理は、それ自体の性質に従ってその自然のものに対する救済的な配慮を行い」
という意味と考えられる。
熊田訳では「摂理はむしろすべての本性を救い保とうとする」と人間の救済までは特定していない。
「自然」という意味についてこの「神名論」の中で調べると、偽ディオニシオスの4章全体を読んでみるとこの少し前の25節にまとまって現れる。以下に示そう
自然の意味は、なにかあるものがもともともってる、くらいの意味ではないか。決して、宇宙、地球環境、生命、大地、博物学と言った意味での自然ではない。
6 「自然」の意味合い
となると,5世紀のギリシア語の「自然」は「もともともっているもの」からラテン語世界に移行した頃には、「人間のもともともってる性質」に移行して、さらにトマス・アクィナスでは積極的に「人間の自然法に基づく自然」と意味が固まってきたのではないか、と考えるが、そのためにはさらにトマス・アクィナスの文献を網羅的に読んだり参考文献を読まなければならない。それは今回の記事では無理なので。ここまで。
7 善が徳を導くのか?
偽ディオニシオスの文書を読んでいるとラテン語翻訳にせよ、ギリシア語原典にせよ、この前のパラグラフに「徳」が議論されていることが大事であると考えられる。その部分は上(250節前半)にあるが日本語で再掲しよう。
ラテン語への翻訳はほぼ再現されているように見える。
多くの人が、神は救済してくれるのだから徳を積むことを拒否しているが、徳を積むことは神の配慮や救済にしたがっていることだ、つまり、徳を積むことは大事である、ということである。この前提で先ほどまで議論してきたことが接続する。
話は前後するが、この4章は善悪について議論している。24節までは悪は善から分離してきたみたいな議論をしていて、ここはまだ私は理解しきれていない。それが一段落して、25節から善に徳の概念が導かれている。
トマス・アクィナスはプラトンよりもアリストテレスの印象の方が強いが、逆に偽ディオニシオスはプロティノス、プロクロスと新プラトン主義の影響下にある。したがって、トマス・アクィナスが、この部分を引用することはアリストテレスと新プラトン主義のどちらも大事に考えているという表明に見える。
8 まとめ
結局のところ、トマス・アクィナスの言いたかったことは、神が人間を救済することは間違いない、と言いたかった、その根拠として偽ディオニシオスの一説を根拠として入れた。この説を根拠として入れることで、人間の善悪において善は悪に勝り、善から徳に導かれることで神は人間を「救済する」(稲垣訳 保全)というシナリオを引用することによって1行にこめたということではないか。
そして、それは過去にレポートした、新約聖書でのヨハネの手紙1でパレーシアが使われているところ
と同一の概念であるということが結論できる。
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