フッサールとフーコーをめぐる読書記

 フッサールは怒っている。危機があると「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」(細谷恒夫・木田 元訳、中央公論社(ハードカバー1974))で怒っている、もしくは嘆いている。
 しかし言葉の意味するところがわからず具体的な危機についてよくわからないまま、290ページまできた。素読みなのでしょうがない。
 よくわからない重要な言葉のメモ(今後の調査のため):
1 心理学 ヒュームの本のこと?それとも当時概念があった?今ではフロイトだとかアメリカ流の実験心理学を思い浮かべるため、心理学が何を指しているのかよくわからない。
2 超越 フッサールのいう超越概念はカントの超越概念と同じなのか違うのか、超越について言葉の評定がよくわからない。私が受け止められていないのかもしれない。カントの純粋理性批判では超越論的と言うのは岩波文庫では先験的と訳されていることを確認ppp79 ア・プリオリと似ていて紛らわしい。
3 判断停止 イデーンを参照しないとわからないのか、ここでは説明がないようなあるような。自明であると考えているものが実は自明ではないという態度のことを言うのか。数学の公理も判断停止したものなのか?第52節pp250-あたりから展開されるが、ここまで待つ必要あったのかどうか。緒言などにもかいってあったのか。
4 ヘーゲル 第57節pp282にはヘーゲル哲学が所謂解体されたとされている。確かに「入門・倫理学の歴史」(柘植尚則 編著、梓出版社)にもヘーゲルでドイツ観念論は終わると書かれているけど、どう終わったのか?何を持って終わったのか?

と言うことを調べるためにヘーゲルの精神現象学(ちくま学芸文庫、熊野純彦訳)を読んだり、カントの純粋理性批判を開いてみたり。

それ以外に、ミシェル・フーコーのコレージュドフランスの講義1970-1971、1巻の1日目を通読。アリストテレスやカント、イデアの超越性などを読む。上記キーワードが出てくる。アリストテレスの人間は自然本性上、認識への欲望を持っている、というテーマ(pp8~)を掘り下げるのが面白かった。フーコーはフッサールを参照していたと言うのは納得できる。参照していたのは内緒だったらしく後年の編集者の注に書かれていた(コレージュドフランスのどれか、探していますが見つからず)。
 マルティン・ハイデッガーの「技術への問い」をパラパラ。平凡社のものだけど、ハイゼンベルクとか156ページにサイバネティックスが出てくる。これもフーコーの内緒にしていたタネ本らしい。
 フッサールとフーコーが焦点結ぶまでこのような感じで進捗がダラダラと笑 お許しください。

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