見出し画像

アンビバレントのその先に

人間のこと、好きですか?

わたしは好きです。

人間、見たいようにしか世の中を見られないのでとてもしょうもないが、そのしょうもなさすら可愛らしかったりする。Twitterでワイワイしている人間も、InstagramやFacebookでキラキラしている人間も同じ個体の別側面に過ぎないことを失念しがち、複雑な人間という存在も己の特権意識もみんな愛しいね。

2022/03/12のツイート

人間、自分の知らないところで色々なことを考え抜いているのにそれを言葉にしないと全く伝わらないの可愛くてすごく好き。自分の好きなものに一生懸命になっちゃうところとか、自分だけ特別視して一段階上の視座で見ようとしちゃうところとか。

2021/10/16のツイート

「人間って可愛いんだよな、感情が醜くて」「どうせ冷めるのに交際するの意味わからんよな」「いや横顔が好きすぎる」「オタク愚かで可愛い」「好きってなんだよ、ふざけるな」

Twitterの下書き

この、愚かで可愛いところが愛しいです。それを特権的に見下ろしてる自分の小ささもまた趣深い。もちろん、仲のいい友人とはしゃいだり、将来を見つめながら語り合ったりする、そんな日常も非日常も大好きです。

だけど、私は他の個体にそれほど関心がないのかもしれないと、あるとき気が付きました。

人間は好きだし君のことも好きだけど


好きな人たちのこと、どれほど知っていたいですか?今何を聞いていて、この瞬間どこで誰と過ごしているのか、一週間後に何をするのかということまで随時追っていたいですか?

知識が力になるこの時代に、周りの人の情報を手に入れることで、人間関係を構築する上で有利に立ちたいと思ったことはありますか?

このふたつの疑問を投げかけたのは、周囲に「待ち合わせに便利だから位置情報を共有する」「日程調整が手間だからカレンダーを共有する」だとか「この情報をあげるから君の情報もちょうだい」だとか、人間とそれをとりまく環境を知ろうとするヒトが、私の想像よりはたくさんいるのではないかと思ったからです。

リアルタイムで現在地を送り合う人たちの価値観も、予定を把握し合う人たちの価値観も、もちろん情報戦で勝ちたい人たちの価値観も、それ自体が悪いものだとは思っていません。情報は力ですし、便利さも優越感も追求するのはある意味正しいかもしれません。

ただ、私は、その個人が私に見せてくれる情報を慈しんで、点と点を結ぼうとしたり、線と線が交わって面になる様を覗こうとしたりしたいのです。つまり、主に言語で開示される情報に頼って、相手の趣味嗜好、世界の見方の輪郭を築いていきたいと考えています。不便で劣等だとしても、そこに人間という生き物の強さを見出してしまったのです。

まったく同じ遺伝子を持ちまったく同じように育った個体とだけ関わって生きているわけではない以上、人間とのコミュニケーションには齟齬が生まれることも多くあります。なぜそう考えるのか、そのような行動をとるのか、悩んでも悩んでも分からないことにあふれています。

それでも、分からないことを分からないまま受け入れていくことに美しさを感じます。人間味を好きな理由も、個人にそこまで関心が強くない理由も、きっとそこにあります。私が知らない部分にこそ、人としての深みがあって、その深みに惹かれます。好きな人のことをもっと知りたい、でも知らないでいたい。

自分についても同様で、知られていない部分にこそ、私の強みがあるのではないかと期待してしまいます。私のことをもっと知ってほしい、でも知られるのが怖い。もしかしたらこちらには、相手の中に私が空想的に作り上げた「イデアとしての『私』」と実際に喜怒哀楽を持っている自分とのズレに気づかれることへの恐れもあるかもしれません。

完璧主義になれなくて


人間は不完全な生き物です。想像力があるから、理想の状態を生み出して現実とのギャップに苦しんでいます。感情に振り回されて、直感で「好き」だと思ったことに理屈をつけてそれを「正義」と声高に叫びます。何度考えても近づけない価値観も、その人が生きていく中での苦しみを昇華させるための逃げ道だと思うと、その過程に思いを馳せてとても愛しく思います。

先日、大阪大学感傷マゾ研究会さんの会誌『青春ヘラ』を読みました。理想の「青春」が形成され、現実とのギャップに苦しみ、時にその苦しみに快感を覚える人間たちがそこにいました。彼らは感情が先立つ経験や思考であるにもかかわらず、まるで論理的なもののようにその過程を記述しているようでした。

手に入らなかったものを渇望して叫ぶ感覚が私にはわからなかったのですが、解像度の高い「今ここに存在していないもの」に対する慟哭という点で自分と共通するものがあると感じました。

楽曲と世界観が大好きだったアイドルグループが解散し、彼女たちのライブをもう二度と見ることができないことに気が付いたとき、記憶の中に残るラストライブを何度も追再生し、サブスクリプションの音楽配信サービスで楽曲を聞いては、その度にかつて確かにそこにあったはずの「世界」が消えてしまったことにショックを受けるのです。

『青春ヘラ』で切実に主張されていた「届かなさ」と、私が抱く「届かなさ」は、対象の差こそあれ、感情自体を取り出したときに残る芯の部分には大差ないのではないかと気が付きました。手に入らなかった理想と、もう二度と掴むことのできない過去。彼らが理想を追い求めて追い求めて届かず苦しんでいる一方で、私はきっと、記憶から薄れていってしまう過去を思い出しています。そして両者は、その「届かなさ」に絶望しながらも、安心するのだと思います。

脳内にある「色づいた理想像」の違いによるものだとしてしまうことは、あまりにも雑な一般化であるかもしれません。「既に存在していた」という事実が、「手に入らなかった」側からしたら恨みたいものである可能性もあります。

人間の不完全さに魅了されているため「理想」を描くことに救いを見いだせなかったのだと思います。想像上の完璧な自分よりも遥かに身近なところに、私よりもずっと努力して才能を開花させているライバルが常にいました。比較して劣等感を抱く一方、彼らもまた、どこか完璧ではないことに気が付きました。完璧な人間など存在しない。自分より圧倒的に強い存在でさえも不完全なのだから、完璧な空想を描くことが救いにすらならなかったのでしょう。

その代わりに、過去に救いを求めようとしました。

神の視点の起源


私が過去に美しさを感じるのは、私の過去が特別に充実したものだったからではないような気がしています。中高生の頃の自分、大学1回生の頃の自分は間違いなく今よりも自己肯定感が低かったし、今よりも未熟で尖っていました。当時好きだった楽曲を聞き過去の幼さを思い出して、苦しくなることもあります。

過去を愛しく思うのは、その未熟さに対してなのかもしれません。他の人間の不完全さに魅力を感じるように、幼かった私の不完全さに対して「可愛い」と思っているのかもしれません。

このように主張するためには、今の自分はある程度の、少なくとも世の中を俯瞰することができるくらいには完全性をもっていると思っている必要があります。だとしたら、特段何かに強みのあるわけではない私が自己肯定するための逃げ道としての俯瞰癖、神の視点だと言えるかもしれません。

結局、先行する感情に無理やり理屈をつけようとしているという点で、自分も他の人間と同じなのでしょう。私は、この事実に気が付いて、とても嬉しい気持ちになりました。人間に過ぎないのに神の視点を持ちたがることに、自己嫌悪を抱いていたのが、解消されて救われたようです。


徒然と、考えていたことをキーボードに乗せて、この先どこに行くのか分からなくなってしまいました。今日のところは、思考の整理によって救われたという事実を残して、これを世界に放流しようと思います。






この記事が参加している募集

私は私のここがすき

連想ゲームのネタにしますね。