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ぼくらが旅に出る理由

魂とか精神性といったものは
見えないせいで不確かに思えるのに
一旦肉体が「死」という起点を通ると
命や身体性はなんと不確かなのかと
やっと確認する。

昨日の夜9時近くにキロンボに帰宅すると
午後2時過ぎに外出するときには
4本足で立っていた保護犬のうちの
一番若い女の子バンビ(仮)が
息絶え横たわり固く冷たくなっていた。

キロンボを出てモト(バイク)タクシーで
テヘイロ(terrerio)という
カンドンブレー(candomblé: アフロインディジナ信仰)
儀式場へ向かう道すがら
突然なぜか頭に日本語の歌の歌詞が流れて来た。

「君の行く道は果てし無く遠い…」
故坂本九氏の「若者たち」。

なんでか分からないが
バイク運転手のお兄ちゃんの背中に
必死につかまりながら道すがら
ずっと歌詞を思い出していた。

今朝ネットで歌詞を調べたら
思いがけず昨日は頭の中で
全歌詞を頭で思い出せていたとわかった。

歌詞の2番目は
「君のあの人は 今はもういない
だのになぜ なにを探して
君は行くのか あてもないのに」

そして3番目は
「君の行く道は 希望へと続く
空にまた 陽がのぼるとき
若者はまた 歩きはじめる」

ぼんやりとなぜ
「君のあの人は 今はもういない」のに
「君の行く道は 希望へと続く」のか
と考えているうちにテヘイロに着いた。

儀式はカボークロ(caboclo)という
ポルトガル入植時以前から続く
インディジナたちの精霊が降りて
歌い踊りメッセージを伝え
葉っぱでお祓いをしてくれるもの。

近代化された現実社会から見れば
狂気の沙汰と言えるような空間で
精霊たちが司祭や参加者たちの
肉体に降りて来て、歌い踊り
悩み事を聞いて助言までしてくれる。

現実と精神世界がごちゃ混ぜになった
時間と空間からまた現実世界に戻り
バスを乗り継いでキロンボに帰ってくると
バンビ(仮)は時間と空間と肉体に
縛られた世界から旅立ってしまっていた。

くりくりの目でいつも
笑っているような表情で
飛び跳ねて遊んでいたのが数日前。

食欲が落ちて元気が無くなったため
バンビ(仮)を道で保護して世話して来ていた
キロンボ住人の女の子へベッカが
毎日シリンダーで栄養剤や薬などを
飲ませ看病していた。

その甲斐あってか、その前の晩には
自力で水を飲むようになっていたため
回復して来たのかと、
私も出かける前にはまだ歩く気力もある
バンビ(仮)にもう少しで元気になる、
なでなでして励ましの気を注入したばかり。

動物の死に際を何度も見てきた私も
通常起き上がる元気も無くなり
意識も朦朧として来るのを見て来たため
まさかこんなに早く虹の橋を渡るとは。

我々よりたいてい寿命の短い
動物たちと共存して来た人ならば
彼らが我々より先に
旅立って行くのを体験し、
動物たちは虹の橋を渡り
痛みも空腹も無い世界で
我々が来るのを待っていると
そういう話を信じている人も多い。

バンビ(仮)を入れて8匹の犬を
保護して来たわけだが
これからこういうお別れが続いて行くのを
忘れてしまっていた。

ワンたちのこの世での役目は
我々人間が忘れてしまっていることを
教えることだという。

バンビ(仮)は去年大通りでボロボロになって
ヨロヨロ歩いているところをヘベッカが
保護して今まで世話して来た。

虐待されていた可能性もあるため、
怖がりだったがどんどん元気になり
8匹の中では一番若いというのもあり
いつも他の犬を遊びに誘っていた。

生まれて間も無く人間に虐待され
瀕死の状態からまた元気になり
大きなトラウマもあるのに
いつも笑っているような子。

生きている中で嬉しいことを
選んでその日その日を楽しんで
近くの人を信頼して生きて行く。

そんな単純なことを我々人間は
するのが難しくなっていると
教えてくれた。

毎日まとわりついていた彼女が
いなくなっても他の犬たちは
いつもと変わらず平然としている
ように見える。

人間の私はと言うと
毎日まとわりついていた彼女が
ここにもあそこにも存在していて、
冷たく固くなった身体を
撫でてあげても後悔しか残らない。

あまり感傷的になるのは避けたい。
ただ思い返すと昨日最後に
バンビ(仮)の温かい身体を撫でて
目を見てからしばらくしてなぜ
「君の行く道は 果てしなく遠い」
の歌が頭に流れて来たのかが、
「君のあの人は 今はもういない
君の行く道は 希望へと続く」
の流れがなぜ希望へと続くのかが、
ぼんやりわかって来た気がした。

そして肉体と精神世界を超越した
カボークロたちの精霊に触れたあと、
現実世界に帰って来ると
バンビ(仮)は魂だけの存在になっていた。

そんな一連の出来事で頭がいっぱいになり
眠りにつきながら
「君のあの人は 今はもういない
君の行く道は 希望へと続く」
あの子はこの世で希望を見出して行くことを
伝えてあの世で先に待っているのかと
ぼんやり考えたりした。

歌というのは見えないことを
感じさせてくれる力を持っており
それが時間と空間を超えて
我々の生きる瞬間に突如姿を現す。

動物たちはなんの助けを借りなくても
我々には見えないものを感じる能力がある。
しかしそんな能力が衰えて来てしまっている
我々は歌や音楽の力を借りて、
カンドンブレーのカボークロたち
動物たちの魂の世界へ旅立つ。

我々は多忙な日常生活の中で
たまにそんな風に旅に出て、
魂や精神世界を垣間見てまた
現実世界に戻って来る。

そしていつか肉体という
今は確かなもの、
存在している根拠ともなっているものが
役目を果たして土に帰って行く時、
我々はまた旅に出るが
同じ肉体にはもう戻って来ない。

そしてその旅先は希望へと続くのだろう。

死というものを美化するつもりは無いが、
肉体の終わりが来た時に、
こうやって我々は死を受け入れて来たのか。
そんな単純なことまでも
小さいバンビ(仮)は思い出させてくれた。

最後に補足:バンビ(仮)はなぜ(仮)なのかというと、彼女はそのつどいろんな名前やあだ名で呼ばれていたため。
また彼女に限らず誰しも(仮)のつく、仮の名前を持つ仮の肉体でたまたま今この世に存在しているとの思いを込めて。

補足2:「ぼくらが旅に出る理由」はご存知の通り小沢健二氏の90年代ヒット曲タイトル。個人的にこの歌の歌詞は死への旅立ちにしか解釈できず、このバンビ(仮)追悼タイトルに使わせていただいた。

補足3:写真はカンドンブレー信仰の海の女神イエマンジャーへの贈りもののボートを植物で作っている時の様子。海へ流してお祈りをする。

バンビ(仮)よ永遠に。合掌。

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