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私はこうして社会人になりました その1

ご覧になる皆様、こんにちは。

本日は私の過去について
少々お話させていただきます。
どうぞよろしくお願いいたします。

私は20代後半から30代前半に
引きこもりになりました。

現在53歳で、公職の身。

遡れば21歳、新卒採用で大手商社に入社し、
そこで一か月、研修期間がありました。
会社に行くよりもセミナーが楽しかった。

過去にスポーツは何でもしましたが、
唯一、サッカーが苦手です。

社内研修の最終日の午後、
「時間無制限サッカー」があって、
勿論、敵味方に分かれます。

ここで違うのは
「点数勝ち負け」ではありません。

終了の合図があるまで、
休憩なしで永遠とボールを
追いかければなりません。

私は疲れていたのか、
味方にゴールしてしまい。
これには流石に大顰蹙。

そこから私は接客を希望し、
一通りのマナー、作法、
お客様への対応、護身術など習得しましたが、
願い叶わず、配属先は本社の総務課。

そこで待ち受けていたものは
「仕事」ではありません。

「私にお手伝いできることはありませんか?」
「本でも読んでろ!」

この言葉は、今も忘れません。

ひたすたら読書…そう…
それが研修後、二か月続きました。

何もしないってこんなにも
つらいことなのか…

率直な感想でした。

コピー撮りもさせてもらえない。
電話番もさせてもらえない…
雑用でもいいから何かしたかった…

その年の6月、
雨が降っていたのを覚えています。

そこから私は仕事を戴き、
雑用から始まり、
社内統計を任される。

これには、嬉しかった。

同時期に先輩と言っていいのか…
呼び出され、総括が始まる。

主に、人格否定から始まるのがほとんど。
記憶に強いのは…

両親を否定されたこと。

我が身だけなら
どうにか持ちこたえられます。

両親のことは流石に許せなかった…

それは、
「出身」

私の産まれは「千葉県」
父は「福岡県」
母はこの「和歌山県」です。

茨城県で就職しましたが、
茨城県生まれでないことを理由に…
どこにも言えない、放送禁止用語的な…
悲惨な思いを…しました。

そこで私はその先輩と距離を置くようになり、
必要外の会話はしなかった。

しなかったなら、しなかったで、
また、応接室と言う名の説教部屋行き、
「俺を避けてるのか!」
「俺の言うことは絶対!」
開口一番、これが、週二、三回あった。

その後、高校時代に学んだ情報処理を買われ、
オフコンと言って、現在のインターネットの前身、
本社直属会社の伝票整理、資金管理などを
課長より任され、ミスもあったが…
信用されていたのかな?

それが、二年半続きました。

記憶に残るのは、他人に教えることの難しさ。
特にパソコンは当時、
誰にでもできる時代ではなかったので、
相手は判らないから、何度でも私に聞いて来ます。

自分が判っていても、相手には中々伝わらない…
どうすればいいのか?
暗中模索、
頭抱え、仕事の傍ら、言葉を勉強した毎日でした。

辛くはありません。
むしろ、やりがいを感じていました。

嫌な先輩から「説教部屋」で俺を差しのいてなど、
なんだかんだ言われました。

ある日先輩が例の説教部屋で
課長のやり方は間違い!
俺のやり方が正しい!
訳の分からないことを言い出したのだ。

これには社内体制の批判にも繋がり兼ねない、
当時大人しかった私は…
「課長が!」そう切り返すと、
「課長や係長がなんだ!
 俺にはバックが付いている!」


「バック?」

不思議に思いながらも
聞き流していましたが、
風の便りとでも言っておきましょう…
その先輩は暴走族上りの
「○○○」と判明した。

その年の二月の初旬、
「お前の性根、叩きなおしてやる!
 枠を用意するから”○○○”へ入れ!」

社会的見地からすれば当然のこと。
断りました。

断ったら…
一週間後…
私は全ての仕事から降ろされ…

いつものように出社…

デスクの上には…何も無い…

デスクの引き出しの中は…
空っぽ…

ボールペン2本…
鉛筆4本…
消しゴム…
大学ノート1冊…

読書すら許されない…

誰も…
話してくれない沈黙の毎日。

ただ…毎日…じーっと
デスクに座って…
時に外を眺めたり…
トイレで…泣きました…

なんで自分が…
自身を責めました。

ヤツらが自宅に来るんじゃないか?
もしもそうなれば…

当時気の小さかった私は
不安でいっぱいだった。

そして…
持て余してしまう時間…

研修後よりつらい…

1ヶ月後…
退社を決意。

退職届を提出したが…
受理されず…
踏みとどまるよう
会社から…
仕事の馬が合う女子の後輩まで使って…
自宅まで電話され…
しつこく説得されました。

それでも
私はこの意思を曲げませんでした。

会社にいて欲しいのではなく、
「自分の不満の捌け口」
給料出してでも
これが欲しいが為です。

最終的に弁護士を介入させ、
出社しないようにとアドバイスを受け、
先生から紹介された病院へ行き、
診断書を医師に作成してもらい、
先生の指示どおり、休職届を提出。

その間、外出は最小限。
病気でもないのに
先生の指示された日に通院。

これは会社側へ通院の事実を
社会保険事務所を通して
会社側へ伝える工作。

簡単に言えば、
労働者の権利を守るためです。

二ヶ月経過した春終わりに、
「正式退社」が決まりました。

これが21歳から25歳の春まで。

その後、すぐに集配を扱う郵便局で
アルバイトしていましたが、
2ヶ月経ったあたりを記憶しています。

体調に異変が現れ始めて来た…

※こころの整理が付く
 ここまでお話させていただきました。

また、機会があればお話させていただきまず。

ここまでご覧いただきありがとうございます。
本日が皆様にとって佳き日であることを祈ります。


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