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ハラスメント復讐譚

離婚して、その会社には週3日のパートで入った。
別のところでやっぱり週3日働いていて、ときにどちらかが週4日になった。
半年して、パートから契約社員になったとき、別の1社を辞めた。
その1年後、正社員になるのを機に転属を申し出て、兼務ということで認められた。
その1年後、マネジメントも任され、私自身も周囲もかなりびっくりしたが、役職手当を含めて給料が上がることは歓迎した。

私は「社長に可愛がられている」と周囲は見ていたかもれない。
社長は、前任者から株を買い取り後任に座った人で、その仕事も会社も愛しているとは思えなかった。
だから、誰も彼の懐に入ろうとしなかったし、味方はひとりもいなかった。
彼は味方が欲しかったのだろうと思う。

しかし。
私は彼が嫌いだった。
仕事ができないし、やる気がないということが致命的だった。
ただ、「社長」と呼ばれたいだけのために就いた座だと思った。
尊敬できない人のもとで働くことが、これほど苦痛だとはそのときまでは実感していなかった。

私は嫌いな人にまで好かれたいと思う質ではないが、だからといってわざわざ盾突くようなこともしない。
だが、彼の不誠実は目に余った。
しかし、猫の首に鈴を付ける者はいない。

何人もが彼のハラスメントで傷つき、失望して退職した。
しかし、すべて「一身上の都合」だ。

加えて残業代が未払いだった。
100時間を超える人はざらで、私は兄の在宅介護をしていたので80時間ほどで済んだ。
残業代は基本給に含まれるとして支払いはされなかった。
だが、それは20時間分だけで、私の場合は差し引いた60時間分も支払われなければならない。
違法である。

36協定では、単月100時間、複数月平均で80時間を超える労働はさせてはいけないことになっている。
私もだが、勤怠につけずに仕事をすることもあった。
お客様の期待を裏切れないという思いがある。
かといって、不十分とわかっている成果物を納品するのも自分のプライドが許さない。

私は社長と仲良しだと見られていたせいか、「あなたの口から言ってほしい」的なことを何度も言われた。
あの社長にものを言えるのは私しかいないと言われた。
実際にことあるごとに交渉したが、社長は「俺の目の黒いうちは残業代を払う気はない」とまで言った。
私の中で何かが壊れかけていた。

私は、その仕事が好きだった。
社長を除く社員たちも、程度の差はあれ「仲間」と思っていた。
「ここでずっと働きたい」という思いと「こんな経営者のもとではやってられない」という感覚がせめぎ合う日々を送った。
怒り心頭に達することもあったが、とっとと辞めなかったのはひとえに「介護離職」を避けたかったから。

そうして、兄が死んだ。
とっとと会社を辞めていれば、もっと兄と過ごす時間があったろう。
丁寧なケアもできたろう。
そういう思いにとらわれていたときに、社長との面談が設定された。

他の社員とは会議室で行うが、私のときは居酒屋。
ほかにもうひとり上席がいて3人だったこともあり、いやいやながら承知したのは、この際、仲間や部下たちが感じている不満や理不尽に何かの解決法を見つけたいという思いから。
放置していれば、有能なスタッフがどんどん辞めていく。

酒で口がすべった、のかもしれない。
いや、思っていた本音がつい出たのだろうと思う。
それはもしかしたら褒め言葉だったのかもしれないが、社長は私の仕事を性行為に見立てて表現した。
え?

命が尽きそうな兄との時間を充てて励んだ業務を、この人はsexに例えて笑い話にするのか。
そのあと何を話したか記憶がない。

帰り道で、仕事仲間に連絡してことの顛末を話すと「それってセクハラじゃん」と言われた。
だよね。
やっぱりね。

それから、入念な計画が始まった。
このままでは済まさない。
未払い残業代の請求期間は2年だった。(いまは3年に延長されている。)
1年前の昇進で私の基本給は引き上げられている。
せめて上がってからの分は支払わせたい。

ハラスメントや理不尽に耐えて、何もかも飲み込んできた結婚生活はもう終わったのだ。
兄も死んだ。
あとは施設にいる母を守っていくだけ。
そのためにも金が要る。

勤怠はタイムカードからデータで落とすようになっているが、数字にしてしまえばどんな改ざんもできる。
だから、休憩時間には、これまでのタイムカードのすべてを紙にコピーした。
スケジュールシステムのログイン・ログアウトの時刻のデータもコピーした。
そして、表にして時間外労働や深夜労働や代休を取らなかった休日出勤分を正確に計算した。
これに付加金と遅延損害金を加えた金額を算出。

法テラスおよび最初の30分のみ無料という法律事務所を訪ねて、請求や裁判について確認した。
ハラスメントだけでは歓迎しない(発言だけではそうそう多額の慰謝料は取れないので)弁護士も、未払い残業代の請求と抱き合わせにすれば、請けやすくなる。

労基に告発したり裁判になってもかまわないと思ってはいたが、時間や手間はかからないに越したことはない。
それで、すぐに労基には行かず、都の労働局の管轄の相談センターに資料を持ち込んだ。

実を言えば、相談センターや弁護士との相談内容など、どうでもよかった。
「相談した」という事実を作りたかった。
「被害」の基本情報はすでに伝えてあって、あとは告発のGOサインを出すだけと、相手に思わせるため。
これらの予約のメールやフォームもデータに残した。

次に、新たな心療内科に顔を出した。
都合のいいことに、会社の真裏だった。
そこで、会社でのハラスメントに悩んで体調が悪いと訴えた。
精神的なものが原因での体調不良は、このときに始まったわけではなく、元夫のモラハラやダブル介護の負荷による継続的なものである。
主として不眠症。

しかし、社長のセクハラ発言以降、会社に足を踏み入れるだけで動悸や目まいに襲われることが増えた。
やむなく社長と話さなければならなくなったときなど、吐き気がすることもあった。
そういうことを心療内科医に告げた。

不安が和らぐ薬を処方してもらい、週1度の通院を続けて1か月、改善しないことを踏まえて、ついに私が待っていた言葉を得る。
「一番の改善策は、会社を辞めることですね」

「この仕事は好きなんです。辞めたくないです。」と訴えた。
これで。
辞めたくないのに退職を余儀なくされたという印象になるだろう。
退職にあたって診断書をお願いするかもと言うと、いつでも書いてあげますよと医師は答えた。

そして。
賞与の支給日が過ぎ、兄の1周忌も済んだ。

私は待っていた。
賞与の支給日に合わせて、会社は大口の融資を受けるのだ。
そのお金で、もしや未払い残業代を払ってくれるのではないかとわずかな期待もあったが、そういうことはなかった。

いよいよ決行のときが来た。
私は2か月後の日付で退職願を書いて提出した。

社長は意表を突かれたようだった。
そこにこれまでの未払い残業代と付加金と遅延損害金とハラスメントの慰謝料を記した請求書で追い打ちをかけた。
付加金と遅延損害金は、裁判になってこそ支払われるものである。
しかし、私はしらっとそれを載せた。

父や兄や母の医療や介護について相談し説明を受けるとき、私はいつも必ず録音を許してもらっていた。
一度聞いただけでは理解しきれない、一人暮らしで相談する人もいないと訴えると了承された。

社長に退職を告げたあと、説得しようとでも思ったのか、もう一人の上席も加えて会議室での話となった。
このときのために、私は新たにペン型のICレコーダーを購入していた。
そして、さりげなくそれをノートの上に置いた。
あたかもペンとノートのセットのように。

社長がそれをチラッと見たのがわかった。
きっと、社長なら、これがペンでないことはわかるはず。

セクハラ発言の録音はない。
私も面談とはいえ、居酒屋での飲み会を録音するほどの「いけず」ではない。

つまり証拠はないのだ。
そして、証拠がないセクハラは、弁護士も引き受けないと思う。
そんなこと言ってないと言われたら終わり。
しかし、私はこうして「隠し録り」をする人間であると知らせれば、あのときの会話ももしや録っているかもしれないと社長に勘違いをさせることができる。

私の話に対して、別の上席が社長に反論を促すと、彼は「言いたいことはあるがここでは言いたくない」と答えた。
そうよね。
録音されてるものね。
下手なことを言って言質を取られてはかなわない。

私もあの発言を録音しているとは一言も言っていない。
現にしていないのだからあたりまえである。
大事なのは嘘を言わないこと。

口座には、融資で入金された大金がある。
口座の残高の迫力は大きい。
借金なのに「金がある」という錯覚に陥る。
これは、私が父を見て生きてきたのでよくわかっている。

それに比べれば、私の請求額は桁が違う。
これを払って、とっととこの不快な場面から逃れたいという気持ちが、社長の表情から見て取れる。

よし、あと一押しだ。
すでに複数の弁護士と労働局の機関に相談済みであることを告げる。
セクハラによるストレスで心を病み、心療内科に通っていることや診断書も取れることを追加。

回答は後日ということになったが、社長は明らかに動揺していた。
しかし、会議室を出たところでうずくまったのは私のほうだった。
疲れていた。

後日、要求通りの金額が支払われると回答があった。
「口外しない」旨の念書を書くことがその条件。

やった!
これこそ、最終的に私が求めたものだ。
「口外させない」念書を書かせることは、つまりは罪の自白である。
お金を払うからみんなに黙っていてね、ということだ。
念書は双方のサインがある契約書と違って法的効力は薄い。
しかし、そうまでして黙らせるという事実が私には重要だった。
喜んで書いた。
そして、数日後から有休消化だけでは満たない分を「特別休暇」として有給でくれるというのでありがたく承知して、会社に行かなくなった。

お金が振り込まれて、元の仲間のひとりと飲んだとき、私はこの経緯を躊躇いなくしゃべった。
「口外しない」という決め事に反して立腹したら、裁判でも起こして、お金を取り戻せばいい。
しかし、そんなことをしたら、過去2年分のすべての従業員の求めに応じて未払い残業代を支払わなければならないのだ。
融資の返済どころか、会社の資金は底をつく。
会社はつぶれるかもしれない。
やれるものならやってみろ。

未払い残業代はもらうのが当然のものだが、セクハラ発言の慰謝料は、たぶん裁判を起こしたときの何倍かになると思う。

そのときのお金が、交通事故で失職している期間の生活を支えることとなった。


読んでいただきありがとうございますm(__)m