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エレベータ渋滞と旅の荷

在宅で作業をしながら、国会中継を流していた。
夕方近く、今日の予定がほぼ終わったあたりになって、野党の議員が質問した。
車いすの議員である。
いくつかの質疑のあと、駅のエレベータの渋滞の話になった。

駅などの公共的な施設に設置が義務付けられているエレベータの定員は11名となっているが、車いすとベビーカーが一度に乗るとするとそれぞれ1台ずつになる。
加えて、コロナで滞っていたインバウンドが戻ってきて、大きなスーツケースの客も増えている。
それで、エレベータに乗らんとする人たちが行列をなしているらしい。

個人的には、年をとって、片手が不自由になったいまでさえ、自分で荷を持ちきれなくなったら旅はやめようという思いがある。
ズルズルガラガラとスーツケースをひきずって歩く自分の姿は、想像の外だ。

長く延ばしたキャリーケースに足を引っかけられて転倒した老人や子供を何度か見ている。
こやつらを赦せないのは、自分がやったという自覚がないことだ。
そして悪意がないから責められるに当たらないと思っているところ。

だから私は、老人や障がい者以外で、ズルズルガラガラとキャリーケースやスーツケースを引きずって歩く姿にある種の嫌悪感を抱いている。
持ち上げて階段を上れないほどの荷なら持ってこなければいいと思うし、持ってきたからには、自分の力で上っていけという思い。
特にエレベータが車いすやベビーカーで混んでいるとき。

旅の荷は、少ないほうだ。
どうしようか迷ったものは、持たないことにしている。
どう考えても、どうしても必要なものだけ、しかたなく持つ。

だが、それらのひとつひとつに対して、どうしても必要なのか?と検討すると、その大部分もまた置いて行くことになると思う。
1泊の旅も、1ヵ月のそれも、1年の放浪も、同じ量の荷物で行きたい。

いや、本当は、何も持たずに行きたい。
実際は、何がなくてもおカネは持たないとならない。
海外ならもちろんパスポートもいる。

本当は、持っていかなくても買えば済む歯ブラシとかは、行けないときの気分を盛り上げるためバッグに入れっぱなしになっている。

着替えは基本2組。
ほとんど、毎日洗濯をする。
その日に身に付けた下着を、入浴中に洗うのが当たり前になり、身体は洗い忘れても、ぱんつは必ず洗って出る。

そして、地元のディスカウントの店やスーパーに行く。
知らない土地でのスーパーは、ことのほか楽しい。

そして、持って来なかったけど、ちょっと必要になった、または足らなくなった下着とか靴下とかシャンプーとか生理用品なんかを、ああでもないこうでもないと迷いながら選ぶことを楽しんだ。

学生時代、高校の同級生たちと旅をしたことがある。
断り切れずに嫌々参加したものだった。
旅なれているだろうから任せるわ、よろしくねみたいな感じ。
嫌々だったのは、端から価値観が違っていることがわかっていたから。

みんなものすごく大荷物でやってきた。
田舎道を歩くのにヒラヒラのスカートとハイヒールで来たヤツもいる。
たかが2日や3日のことなのに、日常生活をそのまま持ってきたのだ。
しかも、日本語が通じ、全国どこでも同じ商品が買える町なのに。

そして、それらは、私にすれば「なければないで済んでしまうもの」であり、「どうしても必要なら、他のもので代替えできるもの」なのだった。

シャンプーはこれしか使わない、宿にドライヤーがなかったら困る、1日目の衣装、2日目の衣装、3日目はまた違うもの、と自宅にいるのと変わらない快適さを旅先にも求める。

大きな荷物を持っているから、少ししか歩けない。
タクシーに乗りたいと言い出す。
駅の乗り換えの際、こんなに荷物があるのに、直通の特急じゃないことに不平を言う。

私は、デイパックひとつなので、身軽に階段を駆け上がる。
3分で乗換え可能なところ、大荷物の人たちは10分も必要になる。

そんなの買えばいいじゃん、と言うと、買うおカネがもったいない、と言う。
そんなの買えば、と言う私のほうがうんと貧乏で、だから特急やタクシーには乗らない。

でも、買えばいい、という言葉には、この機会に普段と違うものを試してみたら、という思いが含まれている。
それが旅なのだ。

冒険をせずにいつもと同じ商品を買おうとするから、帰れば家にあるのにもったいない、ということになるのだ。
また、買う時間がもったいない、という人もいる。

探す時間、迷う時間があったら、有名な観光名所をひとつでも多く回りたいという人。
知らない土地の日常が、旅人の非日常で、そこで迷うことも旅なのだと私は思う。

だから、旅先では、全国チェーンでない店に入りたい。
そこで、普段は見ることのない商品を見つけたら、すごく嬉しい。
日常の快適さが損なわれるおそれがあっても、その「いつものじゃないほう」を買ってみたくなる。

おカネがもったいないと思えば、買わずに店を出る。
でも、見ただけでも楽しい。

買わずにきたものは、なくても済む方法を考える。
大概のものは、なくてもなんとかなる。
だから、日常生活では、迷ったあげく買わなかった買い物の時間はもったいないが、非日常の旅先では、それも込みで旅の楽しさになる。

昔。
ヨーロッパの生理用品は、分厚くて肌触りも吸収力も、日本のものよりかなり劣っていた。
ガイドブックには、こぞって愛用のものを持参せよ、と書いてある。

でも、アレはかさばるし、ヒマラヤに登るのでもあるまいし、と思って持たずに行った。
そして、切羽詰まらない時点で、各地のスーパーでソレの品定めをした。

シャンプーも、下着も、水着も買った。
シャンプーは仕上がりのしなやかさに欠けるが、日本にはない残り香に感激した。

衣類は、どれもサイズが大きい。
水着は、日本のもののように、スタイルを補正してくれるものはなかった。
高いおカネを出せば、あるいはちゃんとした店に行けばあったのかもしれないが、ふらりと立ち降りた海辺の田舎町のスーパーにはなかった。
胸のない人はないままで、お尻の引き締め効果もなく、ウエストのくびれを強調するデザインとかもない。
でも、嬉々としてそれを選び、地元の人に混じってプチリゾート気分を味わった。

美容院では、チップを渡すタイミングがわからず、渡せずじまいになった小銭をポケットにじゃらじゃら言わせたまま、髪を切り終わってしまった。
シャンプーのお湯の温度とか、カットする長さとか、いろいろ訊いてくるけれど、何を言われているかわからないところも含めて、すべて肯定した。
さほど満足した仕上がりではなかったけれど、外に出るのが嫌になるほど落胆もしない。

でも、フランスで髪を切ったということは、小さな自信と誇りを伴った、非日常の思い出になった。
それは私にとって、有名な観光名所で記念撮影をすることより価値があり、楽しいことだった。

なんでもかんでも旅に持って行こうとする人は、日常の快適さが得られない非日常に耐えられないのだと思う。
そういう人たちだけで勝手に行くのはいいけれど、私を巻き込まないでくれ、と思う。

ということは、一緒に行った人たちには、言えるはずもなく、楽しいふりをして、彼女らの流儀を尊重した。
決められた行程を、まるで仕事のように遂行した。
タクシーに乗ったり、高額なレストランに行ったりして散財したのもあり、心がヘトヘトになった。

もちろん、持病や障害のある人や高齢者など、大きなリスクを抱えた人はこの限りではない。
まあ、結局は、価値観の違いだ。
自分はそういう価値観じゃないという人には、ゆるされたし。


読んでいただきありがとうございますm(__)m