見出し画像

ハハのプライド

はしか(麻疹)が流行っているらしい。
コロナが初めて上陸したときや拡大期は「今日の感染者は〇人」という報道が当たり前のように流れていた。

最近「東京都(例)で〇人のはしかの感染が確認されました」などのニュースを耳にすることがある。
なんとはなしに違和感がある。
確かにはしかだって重症化すると命にかかわる。
特に大人になってから罹ると重いと言われている。

はしかは一度罹ると罹らないと聞いた。
私には明確な記憶があるので、その安心感みたいなものが違和感をもたらしているのかもしれない。

感染したのは高校生のとき。
幼い頃は畑の中にある納屋暮らしだったため、近隣に子供はいなかった。
幼稚園や保育園なんてものは、見たことも聞いたこともなかった。

集落の少し離れた大きな家の女の子が、どうやら町の幼稚園に通っているらしく、スクールバスみたいなのが来たらしいが、当時はそれが何なのかどうにもピンと来ていなかった。
カエルとネコが遊び相手で、それでいいと思っていた。
でも、カエルやネコははしかに罹らない。(罹らないのか?)
もし近くに幼稚園があったとしても、行ける経済力はなかっただろう。
多くの人は、幼稚園や保育園でうつってくるらしいが、私にはそういう機会はなかったのだ。

まだ冬が始まったばかりのある日、私は突然熱を出した。
衣替えも済んだばかりで、身体が寒さに慣れていないための風邪だろうと考えた。
高校の2学期の期末テストまでにはまだ間がある。
ええい、休んじまえ。
寝たきりの祖母の隣に布団を敷いて、熱にあえぎながらも、どこか喜んで青春ドラマの再放送かなんかを見ていた。

解熱成分の入った風邪薬を飲んでいるのに、翌日になっても熱が下がらない。
だんだん食欲もなくなり、青春ドラマのストーリーも頭に入らなくなってきた。
夕方になり、早めに仕事を終えた母が、病院へ行こうと言い出した。

この人は、幼い頃、中耳炎になったとき、母親に「そのへんの薬草を詰めときゃ治る、それより稲刈りを手伝え」と言われて育った人であるから、病気の自己治癒力を強く信じていた。

だから、私の具合が悪くなったときも、大げさに騒ぎ立てるようなことはしない。
親が騒げば子供はより不安になることを知っていた。
「だいじょぶ、たいしたことない」
と洗脳の呪文をかけて、本当に私はそれで治ってきた。
精神的なものを除けば、それで治るほどの病気しかしなかったとも言えるのだが。

その人が、親の手にも子供の自己治癒力も及ばない、医療に頼ろうと感じたのであるから、一見して相当弱っていたのだろう。
「なんか、おかしい・・・」
ハハのカンだ。

町では大きいほうの総合病院に駆け込んだ。
まだ自家用車はなく、タクシーなどとは考えもつかなかったのだろう。
15分の距離を、歩いて行ったと思う。
熱はたぶん39度を超えていた。

診察のあと、不安そうな顔の母に、副院長の肩書きを持つ医師は、テラテラつやつやの顔をほころばせて言った。
「風邪ですよ。温かくして栄養をとって寝ていてくださいね。薬を出しておきましょう。」

ハハ、ここで突然の発言。
「あの・・・はしか、じゃないかと思うんです。」
なんでここに急にはしかが出てくるのか、医師も私もえっ?という顔をした。
この時点で、まだひとつの発疹も出ていなかった。

医師のテラテラが穏やかに微笑む。
「お母さん、お嬢さんはもう高校生でしょう? とうに済んでいますよ。」
ハハ、おずおずと反論。
「いいえ、やってないんです。」
医師、緩やかに反論。
「そんなことはないでしょう。小さかったから、軽かっただろうし、お母さん、忘れていらっしゃるんでしすよ。」
ハハ、激怒。
「そんなことないですっ! やってないものはやってないんですっ! ひとりしかいないムスメのことを忘れたりしませんっ!」

このとき、それなら念のため抗体検査をしましょうと、なぜ言わなかったのか、今となっては不思議ではあるが、当時の「常識」では、これほど成長してからはしかに罹る者などいるはずがない・・・3日ばしかは別として・・・という感じだったのではないかと思われる。
そして、何より「証拠」の発疹がなかった。

怒る母と病む娘は、やはり1キロの道のりを歩いて帰った。
母は、ひとさまに対してほとんど怒ったり罵ったりすることのない人であったから、この突然の激怒は私には驚きだった。
何が母に私がはしかだと思わせたのか、今もわからない。
訊き忘れたまま、母はいなくなってしまった。

その夜は、他になすすべもないので、母がヤブと罵る医師の処方した解熱剤を飲んで寝た。
あくる朝、やはり市販のものより効果が強いのか、いくぶん熱はおさまった。

寝たきりの祖母は、神経痛がひどく、定期的に医師に往診を頼んでいる。
この医師は、神経痛の分野ではちょっとした名のある人だったそうで、当時で70をとうに越えていたと思うが、なんと私の小学校の同級生の父親だった。

一人息子が一人前の医者になるまでは現役を辞められんと豪語する心身ともに「ツワモノ」であった。
でも、この息子はあまり勉強が得意でも好きでもないらしく、女の子のスカートめくりがやたら上手なヤツだった。
その後、その老医師はどうなったか、病院が息子によって無事に存続されたのか、まったくわからない。

この医師が祖母の診察にやってきて、私を見て言った。
「おやおや、これは・・・」

ハハ、ここぞとばかり乗り出して、ムスメも診てくれるよう依頼する。
老医師、私の身体を見、様子を聞き、即座に診断。
「はしか、ですな。今夜あたりから、赤いのが出てくるでしょう。」

ハハ、歓喜。
「そうでしょう! はい、そうだと思っていました。そうですよね。はしかですよね!」
何がこれほど母を喜ばせたのか。
大人になって罹ると重篤な状況にもなるというはしかに娘が罹ったと知って、そんなに嬉しいのか。

母は、悔しかったのだ。
前の病院で、自分が娘の既往症を忘れていると言われて。
母は、一度も専業主婦になったことがなく、それゆえPTAも最低限の活動しかできず、運動会のお弁当にも「たこさんウィンナー」は入れもせず、傍から見ればやや放任主義の親で、早朝から深夜まで働いていた。
流行のおもちゃも買ってやれず、そのことが原因で娘が苛められていると知って、
「みんなと同じものを持って何が楽しい! みんなと違うものがいいのだっ!」
と怒ったふりをしながら、内心はおのれのふがいなさに傷ついていたのだろう。
娘を愛しているのに、そうは見られないことに、歯痒かったのかもしれない。

私がはしかをやっていない、と言い切ったのは、ハハのプライドだった。
そして、それが老医師によって立証されて、母は歓喜と安堵を感じたのだ。
それは、それまでの自分の娘への愛情を他人によって肯定、認証されたかのようなものだったのだろう。
そして、たぶんコンプレックスの一掃も。

はたして、その夜から私の全身は赤い発疹に覆われた。
老医師の言うには、発疹が出るまで、よほどのことでない限り、熱は無理に下げないほうがいいということだった。
出るものさえ出きってしまえば、あとは勝手に熱は下がる。

ハハ、我が意を得たり!
前の医師が処方した解熱剤を、仇のように破り捨てる。
プライドを引きちぎられた恨みは深い。

眼の中に発疹ができ、眼を開いていられなくなった。
楽しみにしていた青春ドラマも見られない。
鼻の中にでき、喉にもでき、呼吸困難。
胃腸の中にできたのかどうか、あるいは熱のせいかもしれないが、下痢になった。

母は、次の日こそ仕事を休んで世話をしてくれたものの、その翌日からはまた当たり前に出勤した。
寝たきりの祖母と私のふたりだけの部屋に、なんとくだんの老医師が勝手に入ってきて診察をする。

ときおり、隣に住む人のいいおばさんが、パートの昼休みだから、休憩時間だからと覗きに来た。
おやつなんかを持ってきてくれることもあった。
鍵などかかっていない。
都内だが、そんな時代だった。

1週間、そうやって発疹と闘って、ようやく起きて動けるようになったが、学校はあと1週間は登校してはならないと言う。
やった!
そして、今度は、真剣にドラマを見た。

読んでいただきありがとうございますm(__)m