見出し画像

『わたしを離さないで』

ひとは5年で別人になる。

性格やら習慣やらが変わるとかいう話じゃない。いや変わるだろうけど、そうじゃなくて。物理的に個体「ごと」が変わるんだ。
福岡伸一という生物学者がいつも言ってる「動的平衡」というキーワードにもあるように、わたしたち人間の身体というのは、その細胞ひとつひとつが絶えず合成と分解を繰り返している。見た目は同じ人間に見えても、細胞の中身は捨てて作ってを繰り返しているんだ。皮膚なら1ヶ月、筋肉なら7ヶ月、脳なら1年、いちばん分解の遅い骨の細胞でさえ5年で完全に別の細胞に入れ替わってしまう。つまり人間の身体というのは、5年でその全てが別個体になってしまうのだ。

ここでひとつの問いが生まれる。

なぜ記憶は維持されるか?―――

脳細胞が全て入れ替わるならそこに蓄積されたデータも捨てられるはずで、だとしたら5年前の記憶を維持することなど不可能になる。しかしわたしたち人間は、5年どころか10年20年、時には50年以上前のことだって覚えておくことができる。それは、記憶というシステムの特異性にある。
記憶というのは、言い表すなら「継ぎ足しのタレの''味''」だ。細胞というタレは日々消費され、数年後には当初の古いタレなど微塵も残っていない。しかし記憶という味は1度も変わらないし、なくならない。それは、醤油やみりんなどの調味料という、ひとつひとつのニューロンの「関係性」が変わっていないからだ。まあつまり何が言いたいかと言うと、記憶というのは細胞の中ではなく細胞の外、細胞と細胞の間で「関係性」として受け継がれていく。だから変わりもしないし、多くの場合なくならないのだ。

やっとこさタイトルの回収をしようと思う。
カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を読んだ。
本書の中で主人公の子どもたちは、臓器提供のために作られたクローン人間という''スペア''としての存在で、臓器提供者として死んでいく運命にある。そんな中でもその少年少女たちは、何を''よすが''にして、希望や生きる意味や絶望や不安とどう戦うのかということを、非常に丁寧に描いている、一種の実験小説であるわけだ。
そしてこの小説の中でも、「記憶」というのが主人公たちの''よすが''になり、未来への絶望に対する希望になる。

カズオ・イシグロは、「記憶」について、「記憶とは、''死''に対する部分的な勝利だ」と言っている。
先の細胞と記憶の話に戻れば、わたしたちの身体というのは絶えず分解されてるわけだから、それすなわち身体における生命の無根拠性を意味する。しかし記憶は分解されない。生命というのは人間にとって唯物論的な考えを施す問題であるが、それは「記憶」という唯心論的な現象に確定性を持つものだった。

生命はどこにあるか。
連綿と続く人類史の中で考えられてきたこの問いに、ぼくは科学と祈りの狭間で「記憶」という答えを出したい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?