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塗りつぶされた行間

何もかもインターネットのせいにしたくはない。ぼくだってインターネットの大きな恩恵を受けているんだし、この文章だってインターネットのおかげで発信できている。でも近頃思ってしまうのが、受信者が発信者に対して求める「完成度」だとか「レベルの高さ」というのが、もうこれ以上上げるのが無理なくらいにインフレーションを起こしてしまってるんじゃないか。何度も言うけれど、ぼくはこれをインターネットだとか、なにかをサンドバックにしてそれに不満をぶつけようなんて思っていない。人間の特質上仕方のないことなんだろうけど、やっぱり虚しくなってしまう。
インターネットの登場によって、いままで客席から黙って見ていることしかできなかった受信者たちが、その誰もが発信者になれるように、舞台に上がれるようになった。もちろんそれで全員が全員成功できる訳じゃない。けれど母数が圧倒的に増えたわけで、受信者側がより完璧を求められるように、ワガママを言えるようになったんだ。

昨年、2023年の紅白歌合戦を見て少し興ざめしてしまった。日本のご長寿番組のはずが、目立つのはK-POPのアーティストだった。いや、日本出身の方が多いんだろうけど。それにしてもその数が多くて日本のテレビ番組を見ている気がしなかった。でもやっぱり需要があるだけあって、みんな顔は可愛いしかっこいい。ダンスの精度も歌唱力も、思わず口が空いてふさがらないほどだった。K-POPが人気な理由も、十二分にわかるような気がした。

画像生成AIというのが、この頃色んな業界に波紋を起こしているらしい。まるで写真のような画像も、人が書いたような自然な文章も、思わず息を飲んでしまうような絵画も、なんだって作れる。もう人間が道具として利用するとかいうレベルではなくなってしまったんだと思う。
なかでも特筆すべきなのが、AIグラビアというのはすごすぎる。どの女性も可愛いし、スタイルだって良すぎる。もちろんすごくリアルで、写真とほとんど見分けがつかない。便利を求めて生み出したAIが、こんな風な変貌を遂げると誰が思っていたんだろう。

日本人は元来、完璧を求めるような民族ではない。美術の世界であれば、「余白の美」だとか、「金継ぎ」だとかいう文化は、全て不完全の文化だからだ。
どこで読んだのか覚えていないのだが、日本と欧米の部屋の区切り方というのに、その国の民族の習慣だとか心情が顕著に出ているそうだ。欧米の場合、分厚い壁で部屋どうしが区切られていて、プライバシーの面で言えばほぼ完璧に保護されていることになる。一方日本では、「襖」という薄い、しかも可動式の扉で区切られているのだ。音は漏れるわ、覗かれるわ、寒さは凌げんわで不便極まりないだろう。なぜこんなにも不便な生活様式が今日の日本まで受け継がれているのか。それは、日本人というのは「察する文化」の上で生きてきたからだそうだ。相手の気配を察しながら、お互いに気を遣い合いながら生きていく。そういった遊びの余地を本質に持つのが、日本人という民族だった。
言語だってそうだ。行間を読むという言葉があるが、ただ言葉を放っていても、口にはされてないがその言葉に付属して読み取られる意味や概念というのがあった。田中英光の小説から拝借すれば、「さようなら(そうなる運命でした)。」「イヤダ。せめて(また逢う日まで)、」というような感じだ。言葉と言葉の間には、そこはかとない無窮の感情の泉が、察しの余地が広がっていたのだ。
不完全で分かりにくいし、不便で使いづらいが、その余韻を楽しむ余裕、行間を読む心というのが、間違いなくあった。

けれども今は、文化や習慣が欧米化しすぎたのかも分からないが、まるで味の濃いジャンクフードを食べすぎて質素な和食が食べられなくなった生活習慣病患者のような国になっている。分かりやすいこと、ギラギラで、100・0の価値観のようなものが蔓延してしまった。再三言うことになるが、これは誰が悪いとかの話ではなくて、もう仕方のないことなのだ。だからまあこんなことをこんなふうに書いたって仕方がないのだけれど。でもどうしても書きたくなってしまいます。

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