見出し画像

読むこと、理解すること

みなさんは普段、どれくらい文章を読む機会があるだろうか。私の場合、メール、事務処理関連のマニュアルなど、仕事で文章を読む機会が少なくない。また、就職してからも細々とではあるが、読書も続けている。しかし、そこに書かれていることを本当に理解できているのか、不安になることもある。

大学、大学院では、外国語の文献を講読する機会というものが度々あった。指定されたり、自分で探してきたりした文献を、授業までに読み、授業ではその内容について議論をする。

大学院2年の後期に、ある英語の文章を講読することになった。文明の発達というのは素晴らしいもので、機械翻訳を利用すれば外国語で書かれた文章も、すぐに日本語で読むことができる。しかし、日本語として文章を読むことはできても、その文章が何を言っているのか、これを全然理解できないということがある。内容的に込み入った文章を理解するためには、機械翻訳ではダメで、ベースとなる知識が必要となる。これが厄介な問題である。

このとき読んだ文章では、例えば、日本語でいうなら「〇〇的小説」という表現がでてきた。〇〇の部分には、ある作家の名前が入っていた。しかし、私はその作家の名前さえも知らなかった。このとき、このような言葉あるいは人物などに関する知識がなければ、内容を理解することもできないということに気づいた。同時に、それは自分自身の教養不足をも痛感させられた場でもあった。

そのため、教養を身につけることが大事というのはよくわかった。では、どうすれば教養を身につけられるのだろうか。これもまた大きな問題である。

私の取りうる方法は、2つあるだろう。1つは、とにかくたくさんの本を読むということである。私は読書が好きという要素も加味すれば、妥当な選択だろう。本を読む際、ジャンルによっては知らない言葉、概念が出てくることもある。それらをしっかり調べれば良い。あまりにもありきたりな方法くらいしか、私には思い浮かばないが、それだけ読書のもたらす効用は大きいのかもしれないとも思っている。

もう1つは、たくさんの人と関わるという方法である。人から教わること、学ぶこともかなり多いだろう。4月から新しい生活を始め、そこでは新たな人との関わりが無数に生まれている。その中で、私自身も成長していけるような関係性を築いていけたら、実りある実生活を送れるのではないかと思う。

サポートしていただいた場合、書籍の購入にあてさせていただきます。