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『本を読む本』(W. J. アドラー、C. V. ドーレン著、外山滋比古、槇未知子訳、講談社学術文庫)

本のタイトルの通り、本の読み方についていくつかの段階に分けて述べた本である。全ての本を最高水準の読み方で読む必要はなく、どの本をどのように読むのか、それを決めることも必要である。

本の選び方

本を選ぶ際、目次はしっかり読むことが大事だそうだ。

私はその場の直感で本を買うことが多い。そういう選び方もあるが、「変」な本を選んでしまわないようにするには、やはり目次くらいは確認した方が良さそうだ。また、これまで目次を「見る」ことはあったが、丁寧に読み込んでいくことはなかった。しかし目次を丁寧に読み込んでいくことで本の構造が分かるため、読むべきかどうか決められるそうだ。

目次をしっかり読むだけで本の構造が分かり、その本を自分は読むべきかどうかの判断ができるのなら、是非ともやりたいものだと思った。しかし、目次から本の構造を把握できるようになるには、相当な訓練と数をこなすことが必要になってくるだろう。

また内容の表面をかいつまんで読むことも良い。これも適切に実践できたら、かいつまむ程度の読み方でも本の内容が頭に残り、必要に応じて取り出せるようになるという。最近は読まなければならないものが本に限らず、どんどん増えてきている。そのためこの話はとても魅力的なものであると感じた。

文中で使われている言葉や句

著者は複数の表現を使っていながら、同じことを説明していることがある。そのとき、表現が変わっていても意味は変わらないという。

例えば、ここでは文脈がないため伝わらないと思うが、「洞察のための読書」や「啓発のための読書」といった表現が出てきたとき、どちらも「理解力を深めるための読書」という意味で使われているという。

私は日本語よりもむしろ英語を読んでいるとき、特にこの言い換えに気づけるような気がしている。いつも、これは訳し方を変えるべきか否かで悩んでいたが、これでこの悩みは解決されたのかもしれない。

ではなぜ英語では気づけるのに、日本語では気づけないのだろうか。その可能性として考えたものが1つある。私は日本語を母語としているため、言葉の一つ一つの意味を改めて逐一調べる必要がない程度の語彙を持っている。そのため日本語の文章を読む場合は、一文一文をそこまで丁寧に読んでいないからなのかもしれない。だから日本語の文章の方が、著者の言い換えに気づけないのかもしれない。

一方の英語は私にとっての外国語であるため、頻繁に辞書を使って言葉の意味を調べる必要が生じる。そのため、結果として日本語よりも丁寧に文章を読んでいくことになるから著者の言い換えに気づけるのかもしれない。

さいごに

本書の最高段階の読書法は、習得するのがとても難しそうである。しかし著者によれば、その方法で読まなければいけないような本は、この世界に滅多に存在しないという。それならば、「この本はまだ完全に理解できたわけではないが、最後以外はわかった」というスタンスでも良いだろう。

読書法について考える人たちには、この本を一読するくらいの価値はあるだろうと思う。


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