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「正解」を言わないと -「聴く」と「正解」-

他人の話を聞いていると、意見を求められますよね。

そのときに昔は自分の意見を言ったりしたものですが、最近は歳を重ねたせいか、相手が求めている「正解」は何だろう?と必要以上に考えるようになりました。

というよりもむしろ、若い時は感性がまだあったので、自分の言いたいことが相手にとっての「正解」だったことが多かったように思います。

そういう意味では「正解」を考えないと捻り出せなくなったとも言えます。「正解」は何だろう、何を言わないといけないんだろう、そんなことばかり考えて逆に話を「聴けて」ないこともしばしば。

そして、果たして他者は「正解」を求めて話をしているのかどうかという問いも出てきます。人は自身の課題や聴いてほしいことを話すときに、私に「正解」を言ってほしいのかどうか。

そんな欲しいかどうかも曖昧な「正解」を言うことばかりに気を遣っているうちは、我が身可愛さゆえに、「聴く」ということなどできてないのではないでしょうか。

そういう意味では、歳を重ね自分の世界ができてきてそんな自分可愛さからか、あるいは「聴く」機会の減少のせいか、両方か分かりませんが、私は人の話を「聴く」ことができていないのです。

他者に敬意を持ち、他者との繋がりを作っていく上で大切な「聴く」ということができなくなるということは、他者との繋がりを求めているくせに我が身可愛さの我が身すら守れていないというジレンマ。

「正解」を言うことが歳を重ねた私の生存理由と思ってしまうことが、私の本来の生存理由を危うくさせる。

私は私らしく生きていたいのです。
私は「正解」を言えなくなるのが怖い。歳を重ねた私が他者から承認されるのはそれができるときだけしかないと思ってしまっているから。

でも。
私は話して貰えてるのです。
私は話してもいいと思える価値があるということなのです。

私にできることは。
誠心誠意、できる限り聴くこと。
それでいいんだと、また私に伝えてあげようと思いました。

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