食べる瞑想:好きと嫌いの間
3/22~24にプラムヴィレッジ僧侶団のマインドフルネスリトリートに行ってきました。
特に印象的だったのは、23日のランチタイム。
リトリート中はお昼にお弁当が出て、みんなで給食を食べるときのように机を向かい合わせていただきます。
瞑想リトリートなので、ランチは食べる瞑想タイム。
食べる瞑想とは
食べる瞑想っていうと、黙食のことだと思っている人がいるのですが、それはとても残念な捉え方。
ただ黙って食べるというわけではなくて、
・その食べ物を見た感覚
・匂いを嗅いだときの感じ
・唇に触れたとき
・口に入れたときの舌触り、歯触り、味
・ゆっくり噛んで行くとどんな風にそれがすりつぶされていくのか
・喉を通る感触
など、食べるというプロセス全てを意識的に行う瞑想の一つです。
食べるということから気づきを得ることが出来るし、食品そのものの味をしっかりと味わえます。
食べられることへの感謝なども感じることが出来て、大好きな瞑想法。
だけど、1人でやろうとすると、時間がなかったり、テレビを見ながら食べてしまったり。
私にとって、やることは難しくないのだけど、実際に取り組むには難しい瞑想です。
だからこういう機会に強制的にやらされるとしっかりと向き合うことが出来て良い。
3/23のお弁当
さて、印象的だった3/23のお弁当には、小タマネギを半分に切って焼いた物が入っていました。
私、ネギ関係の食品がとても苦手。長ネギ、タマネギ、らっきょう、エシャロットなど、臭くてとても食べられない。
噛んだときの歯触りも×
数年前にカレーの付け合わせでついてきた、ピンク色に染まったタマネギの福神漬けみたいなのをうっかり食べてしまって、まずくて震えたことを思い出しました。
まずくて震えた記憶なんて、その福神漬けか、母がペットボトルの漂白をしているのに気付かずに、漂白剤入りの水を飲んだときの2回だけ。
漂白剤入りの水と同じレベルで戦慄が走るほどにまずかった。
だから、透明の蓋の上から小タマネギを見たとき、「残念」って思った。
他の綺麗な食品よりもまず、小さなタマネギに目が行っちゃうんだね。
それ以外のものをゆっくりと味わい、幸福な感じで食べ終えました。
最後に残った小タマネギ。
じっと見ていて思ったのは、「これはムリだ。」
だけど、うっかり食べた時だって、吐き出すか飲み込むかのどちらかで、ろくに味わったことがない。
嫌いだと分かっているものを味わうと、どういう感じがするんだろうか。
おそるおそる・・・
小タマネギの中心の部分を口に入れてみた。
変につるっとした感じ。
そして噛んだときの匂い。
味がしみ出してきて、とにかく臭い。
その臭いの味。
うわー。やめておけば良かった。
だけど、これは食べる瞑想。
食べ始めたからには、もう少し噛んでみよう。
とにかく嫌がりながらも、すりつぶしていく。
すると、段々と小さくすりつぶされていき、味が薄くなってきた。
そして、ごっくん。
口の中には、まだ味が残っている。
だけど、最初に一口噛んだときと比べると少し印象が違うかも。
決して美味しいわけではないのだけど。
飲み物を飲んだら、すっかりタマネギの味は消えてなくなりました。
そして、初めてタマネギを味わって食べることができて、なんか達成感というか、爽やかな感じが残りました。
気付いたこと
結局その一切れだけしか食べなかったけど、分かったことは、やはりタマネギは不味いということ。
だけど、嫌いなものも、しっかりと味わうことによって、嫌いさが緩和された感じがしました。
これって、私にとっては結構重要で、嫌いなことってタマネギ以外にもあるわけです。
人間関係だったり、やりたくないこととか。
そういう、嫌いなことも、実はよく分かっていなくて、対面してみると案外なんとかなることもあるのかなと思ったりしました。
別に、全てを好きになる必要もないんだけど、嫌いを続けている必要もない。(好きになったほうが、葛藤が少なくなる場面は多いと思われる。)
嫌いと好きの間は結構距離があるものなので、その距離を0にするのは難しいと思うけど、少し近くすることも可能なのかもしれないな。
少し近くなると、見える雰囲気とかも変わってくるのかもしれないな。
そんなことを感じた食べる瞑想でした。
まあ、焼いたタマネギだったから、食べられたというのはあるのかも知れない。
生だったらムリだろうな。
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