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ATMANの暗黒日記パート⑦

いい加減、早く終わらせたいので、とっとと、次を書く。

そのSINONさんと併行して動いていたShifoさんの方は、実はかなり面白い動きをしていた。

地元の商工会議所の依頼を受け、府中市の応援ソングを作ったというのだ。これを年頭に府中市に公式に寄贈すると。

それがこの曲「better than before」。

話を聞けば、地元の商工会議所のメンバーがコロナでいろいろ活動できなくなったことで、それでは商工会議所で応援歌を作り、それを市に寄贈し、歌とダンスで市民を元気づけることができれば、そんな想いから、彼女にその曲の制作を依頼したとのことだった。

本当のところどうだったかはわからないが、ぼくはこういう民間から実際上がってくる市民運動のようなものは好きで、じゃ〜、本気でこの曲で府中市を元気にしましょと、軽い腰を上げたのだった。

早速、読売、朝日と地元版2紙の取材を決め、彼女のインタビューを済ませ、年頭に行うという市への正式な寄贈式に同席させて頂いた。

その寄贈式には当たり前のごとく府中市長がご参加され、そこには府中市役所広報からか、いくつかメディアが取材に来ていた。

この時、ぼくははじめて商工会議所のメンバーと挨拶し、そして、寄贈式がはじまり、市長とメンバーの歓談になった時に、市長から、せっかくこうして寄贈してもらったのだから、SNSなどネットを使ってこの曲で市民を元気づける動きをしたらいいのではないか、というありがたいお言葉もあったので、

「本当、そう思ってます。こういう本当の市民運動はなかなかないもので、だからこそ、これを無駄にしないように、それらSNSなどを大いに使って活用すべきだと考えてます」

と、この市民運動を称賛し、自分のことも含めこの動きを止めないことを強くアピールをしたのだった。

蓋を開ければ、この運動は、この市への寄贈までしか考えていなかったようで、この時のメンバーは、これら寄贈後に期が改まったということで、新たなメンバーに代わってしまった。

曲作ってYOUTUBEにアップして、それで終わりかよ〜、これが本当の市民運動なのかという想いのもと、ぼくはどうせやるなら確実に結果が出るような活動を心がけているので、ぼくにはここでアイデアを持ち、府中市全体を巻き込み、さらにはこれを全国区にすることを画策していたのだった。

考えはこうだ。

この曲を使った市民参加のダンスコンテストをしようと。

もともとこの曲は、歌と踊りで市民を元気づけるというコンセプトで作られていた。上記のミュージックビデオにも地元のダンススクールのメンバーが出ており、すでに、その振り付けもあるし、そのダンススクールの若きオーナーも、市が正式に動くことになれば、振り付けもしてくれるとの話もつけ、まずは幼稚園、小学校、中学校にて、この曲を市にテーマ曲として指定してもらい、Tiktokに生徒のダンス動画を投稿してもらい、それを市がコンテストをする、という企画を立てたのだ。

実際、当時はコロナで運動会が実施できない状況でもあったので、そんな状況下でも、この施策をすることにより、コロナ禍においても安全に児童の父兄にこれら児童の学校内活動をネット上で視ていただくことができるという利点もあり、且つ、生徒の市民活動の参加、ならびに、コロナ禍での授業の目的ともなると考えたからだ。

こういう自分の子供が出て来るような動画は、ぼくもそうだが、親は一生懸命観る傾向にあり、さらには自分の親兄弟や親戚、仕事仲間、はたまた、友人にまで拡散する傾向もあるので、そこもこの運動を盛り上げる力になるのではとも考えていたのだ。

もちろん、それは学生だけでなく今回は市全体を盛り上げる企画なので、これに社会人部門も作り、消防局、警察、いろんな公共機関を始めとし、地元商店街のメンバー含めて、いろんなカテゴリーからの投稿を募り、市が最終的にそれをコンテストをするという壮大な計画を立てたのだ。

さらには、この企画はこれだけはない。

地元の商店街は、当時も緊急事態宣言の煽りを食らって、集客に困っていた。

そこで、学生を中心として、自分の推したいお店の前でこのダンスを踊りTiktokに投稿すれば、そのお店のサービスが格安で受けられるというもので、この企画により実際にほんの少しでも地元経済が回るよう、お金の流れを作る施策も考えてみたりしたのだ。

さらに、Shifoにおいては、府中市のコミュニティーFMで番組を持っており、そこに地元市民からの人生での苦労話を公募し、1番彼女が感動した話をモチーフにそれを曲に作り全国発売する企画も同時に立てていたのだ。

ぼくの狙いは実はそこにあり、この曲では彼女のよさが十分に発揮されていなかったので、この曲での全国ヒットは難しいと考えていたのだ。

彼女の力が最大に発揮されるのは、彼女がひとの心に本当に共感した時に発揮されるもので、彼女は以前クーペ&シホというユニットを組んでいたのだが、そのクーペさんの書く、純粋な歌詞に彼女が共感し、彼女がそこにメロディーをのせると、とんでもなく、ひとを感動させる奇跡の曲を作るのだ。

実は、このクーペさんは、コロナではなかったが、一昨年の夏、残念ながら亡くなられてしまったのだが、ぼくは生前の彼らの曲に、なんど、涙を流させられたことか、この軌跡をそこで、再度、起こしたかったのだ。

先述のコンテストが実施されれば、おのずと彼女の活動に注目が集まり、実際、ここで曲を作った段階で、今度は上記コンテストの話も含め、曲が生まれた背景も含めて、そのネタを全国区にしたいと考えていたのだ・・・





これに対し、半年間、粘り強く、商法会議所、市議会議員、市役所にも働きかけを試みたのだが、悲しいかな、ほとんど、賛同を受けることができなかったのである・・・





ぼくの体は、その頃、もはや、疲弊しきっていた。

スーパーの仕事は夜9時にはじまり、翌朝の8時に終わる。基本、品出しの仕事である。本当は週5働きたかったのだが、三六協定とかで週4しか働かせてもらえなかった。

が、そのおかげもあり、音楽活動にも力を入れることができた。半年。

その間、8時に仕事を終え、8時半に帰宅。風呂に入ってから朝食を食べ、10時には寝る。そして、2時か2時半に起床し、音楽の仕事をする。

そんな生活が長く続けられるわけがない。スーパーの仕事はそんな副業ができるほど、甘いものではなかったのだ。

出勤し、まずは前陳といって、お店の商品全体の品物を前に出す作業をする。その後、担当であるドリンクエリアの商品補充だ。

これが重い。500mlと2lもの、さらにはビールも入れるので合わせるとかなりな量になる。そして、店頭に足りなくなったこれらをすべてメモって、2階の倉庫から、基本、ひとりで持ってくるのだ。

そして、みんなで手分けして、補充。

その後、見切り商品に値段をつけ、牛乳商品の補充だ。

その後、今度はPOP外し作業のため、また、お店全体の商品を見て回る。これが終わったら、今度は最後の店全体の前陳をまたして、前半戦終了だ。

午前2時から4時まで休憩&仮眠。

ぼくとしてはここの時間は休憩なのでお金が発生しないことからいらなかったのだが、新たな商品を積んだ便が4時からなので、休むしか方法がないらしい。

そして、4時から、それら新たな商品を受け、すべて品出ししていく。

前半戦5時間、後半戦4時間の計9時間労働という契約である。

基本、すべて立ちっぱなしの、さらには、お店はそれほど広い部類のものではなかったのだけれど、終始歩きっぱなしで、帰りなど、いつも千鳥足で帰っていた。

そして、昼2時半くらいに起きて、音楽の仕事をする・・・

まだ、当時は音楽の仕事をしていたからモチベーションをなんとか保っていたが、半年、ことはまったく動かず、ぼくはスーパーの疲れとともに、音楽の仕事を自分との約束もあり諦めたのだった・・・

残ったのは、スーパーの仕事のみ・・・

これ1本で家族を養えるわけがない・・・

ぼくはそこからまた新たな働き方を考えるのだった・・・





って、まだ、終わらんのかい(怒)

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