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土地収用で感じたこと

行政が道路を拡張するために、弊社土地を収用することになった。

金額の話もスムーズにまとまったので、このまま本件が終われば、建物の使用方法等も見直しをできるので、チャンスだなと思っている。

今回、土地を収用されるにあたって、あらためて「土地を所有しているとはどういうことなのか」という問いについて考える機会になったので、記事にしてみたい。


行政の担当者から聴いたこと


やはり行政の方が収用を進めていくにあたって、地権者は協力的な人ばかりではないらしい。

そもそもそのプロジェクトに反対していたり、土地を渡すことを嫌がっていたりして、なかなか行政のアプローチに応じない人も中にはいるようだ。

土地収用を受け入れることにした者からすれば、該当土地の収用が進まなければ道路の新設は進まないので、困ったもんだと思う。

当然都市計画として、街の全体設計の中で動いているので、その人が拒んだところで、もう全体の流れは止まらないことは明らかなんだけどね。

ましてや、行政の方々の人件費(税金)もかかっており、地権者がゴネれば、その分時間と税金が無駄になるので、彼らを非難する考え方もあると思う。

でも一方で土地所有者には所有権があって、それを誰かに無条件にはく奪されるということはないので、それは協力的な人ばかりではないのは当たり前だろうなと思う。

世の中には、そもそも”変化”というもの自体を好まない人が一定数いるものだ。

土地所有者として持つべき意識とは


そんな現実は分かりながら、あえて理想を言っていいのであれば、土地所有者が持っていてほしい意識とは何だろうと考えてみた。

それは「土地所有者として、社会の発展を止めない」という意識だと思う。

土地を所有しているから、この土地をどうするかは俺さまの権利で、俺さまの承諾なしでは何もさせないぞっていうスタンスの地権者はいると思う。

それもいいんだけど、僕が思うのは、地権者だからこそ、社会の発展や向上に対して協力的であるべきだと思う。

その人たちが反対すればプロジェクトが進まない、そんな立場にいるからこそ、その立場は協力的な人が務めなければならないと思う。

でないと、社会にとって良くない。

社会の進歩をその人たちが止めることができてしまうから。
全ては諸行無常で、変化していくことの方が自然なのに、その変化を止めることができてしまうから。

ここで、かつて大塚家具で社長を務めていた、大塚久美子氏の発言を引用したい。

経営権というのは権限であって、権利ではありません。
なかなかそこを理解するのは難しいですね。
権限には当然、重い責任も伴うわけです。

磯山友幸 『「理」と「情」の狭間 大塚家具から考えるコーポレートガバナンス』(日経BP)


土地の所有権も同じだ。
土地を所有するということには責任が伴うのだ。

なので、権利と責任を両軸とすれば、権利だけを主張して、責任を果たさないのはナンセンスなのだ。

だから、少なくとも僕自身は、社会に対して誇れる土地の管理者でありたい。
この人が所有者でよかった、と先祖からも、地域住民からも、社会からも、もっといえば、仮に土地に人格があるとすれば、土地からもそう思ってもらえる所有者でありたいと思っている。

もし土地ちゃんがいたら、「あなたが所有してくれて私は幸せよ!」ってハグされたい。
僕も大事にしてるからさ。任せてくれよ土地ちゃん。

土地の境界なんて幻だ


土地所有でいうと、境界で揉めるというのはよくある話だと思う。
でも、僕の本音はしっくり来ていない。

そもそも、土地は誰のものでもなく地球のものであり、境界線なんて、関係者間でそういった同意をしているとだけのただの幻想である。

幻にこだわってもしょうがない。

例えば、海には所有権はない。

国ごとの境界はあるけど、個々人が土地のように細かく切って誰のもの、ということはしない。こっちが本来の姿だと思う。

だから、人間の土地所有なんて結局は全員「借地権」だ。

土地を借りているのだ。土地を使わせてもらって、そこで生かされているのだ。「俺の土地」ではないのだ。

やっぱりSNSとか見てても最近よく目につくのは、権利ばかり主張して、その反対の責任の意識がすっぽり抜けている意見を言う人たちだ。

その意識で、持続可能なものを築き上げることは難しい。
常にバランスが肝なんだ。

僕は評論家が嫌いなので、まずは自分が今の立場で土地所有者、会社経営者としての責任を果たすということを背中で見せてきたい。

結果で証明していきたい。

そんなことを鼻息荒く思っています。

それではまた。

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