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架空書評:綿谷りさ『蹴りたい背中』

※本書評はこの本を読んでない筆者がタイトルのみから連想し、架空で拵えたものです。
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小説は設定が全てだ。その「善し悪しは物語の設定で8割決まるお」と述べたのは19世紀の文学批評家吉崎慎也である。吉崎の達観をも超越するのがこの『蹴りたい背中』。私は声高にいう、「善し悪しは物語の設定の8割5分で決まるお」と。

人間サッカーが国民的人気を誇る世界。そこでは、人間がボールとなり、ゴールへと運ばれる。国民はこのスポーツに日夜夢中であり、スタジアムは常に満員。試合開始時間になると、国民はテレビに釘付けで、好みのチームの応援に熱をふるう。

…こんな設定の物語である。誰もが考え得ないような緻密な設定。ここで多くの読者は降参し、大人しく本に釘付けになるわけだ。

人間のボールには多額の時給が支払われる。なぜなら彼、彼女たちは蹴られるから。スパイクが頭や腹に食い込み、白熱した試合ではボールが死んでしまうこともある。しかしそれは同意の上で、ボールはまさに人生を賭して多額の資金を求めて自らボールになる。

主人公である草野 球男(くさのたまお)は生粋の野球少年ピッチャーであったが、中学生のときに全ての指が深爪になったことがきっかけで人間サッカーに目覚める。着実に人間サッカーで実績を積む草野だが、あるリーグ戦の決勝大会のボールがなんとかつてのバッテリー捕手野 男(ほしゅの だん)だった…試合開始の合図と同時にボールに駆け寄る草野。ピッチで丸くなる捕手野の背中に向けて脚をかけるか否かのところで、空を切る。そう、蹴りたい背中。しかし、草野は捕手野を蹴ることが出来ずに、ピッチを後にするのである。

草野の心情を思うと、我々は絶句する。草野の仕事は人間を蹴ること、しかし捕手野の仕事は人間に蹴られることなのである。ボールであるはずの背中を蹴れないもどかしさ。私はこの部分を初めて読んだときに、あまりのもどかしさに本をぐしゃぐしゃに丸めて、川に捨ててしまった。改めて買い直したが、やはりもどかしさは拭えない。蹴れよ、いいから、それがお前の仕事だろ、設定の虜になった読者は紙面越しから草野に語りかけるも、草野はやはり蹴れないのである。

そう、捕手野の背中は読者が蹴りたい背中。これがこの本が用意した精巧なギミックの答えなのだ。

草野は再びピッチに戻ってくる。この時我々は一瞬で安堵するも、今一度絶句する。彼は人間ボールとして再びピッチに返ってくるのである。読者はまた異なる蹴りたい背中と出会うことになる。なんで、捕手野を蹴らなかったんだよ、いい加減にしろよ、それでもプロか、スポーツに私情を挟むな、何がボールは友達だ…と。我々は草野の背中を誰よりも早く蹴りたいのだ。来春、製作費1億円をかけて映画化が決定した本作だが、思わず観客がスクリーンに蹴り向かわないかだけが心配である。

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