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架空書評:村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』

※本書評はこの本を読んでない筆者がタイトルのみから連想し、架空で拵えたものです。
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物語は、鳥類研究者の吉崎慎也が猛禽類の大群に追われるシーンから始まる。かつてこのような導入の物語がこの世界にあっただろうか。自称小説家が書きつけたアイデアノートまでつぶさに見れば、似たようなシーンはあるかもしれない。既に吉崎の上半身は猛禽類のかまいたちによって切り刻まれており、冒頭から主人公の生存確率がこれほどまで低い小説もこの和平条約が蔓延る時代に珍しい。また、吉崎の相方の共同研究者ジェイミーは猛禽類による執拗な衝撃波攻撃によって既に息絶えている。いち早く猛禽類の危険を察知したジェイミーは自分がオトリとなって、吉崎を先に行かせるも、道中PSPに夢中であった吉崎はジェイミーの死虚しく、逃げ遅れてしまったのである。

第1部はここで終わり、吉崎の生死について読者は第2部を待たなければならない。主人公は生き残る…そんな通説を我々読者は心の何処かで無意識に期待してしまう。しかし、第2部は無残なPSPの描写から始まり、読者は猛禽類とかまいたち、衝撃波の恐ろしさを痛感する。なんという切れ味、なんという惨たらしさ。人間の肌身をいとも簡単に切り裂く無情なかまいたちを前に、人間は無力であり、弱き小さな存在であることを突きつけられるのである。吉崎を殺害した後の、猛禽類による以下の台詞は読者の人間に対する一抹の期待を封殺してしまう。

「お墓のお供え物を狙って人間が帰るのを待っているカラスじゃねえんだよ!あいつらは巻かれたネジの分しか動けねえ、ネジ巻き鳥さ!」

人間は鳥というと、お供え物を齧るくらいしか能がない、人間よりはるかに下の生き物だと思ってしまっている。しかし猛禽類はちがう。ネジを巻かないと動けないような鳥ではなく、ソーラーパネルによる永久動力を獲得した飛行物体Mなのである。

勘のいい読者はここで気づくだろう。本当の主人公が、実は吉崎やジェイミーではなく、猛禽類そのものであることを。第2部が終わった時点で、吉崎もジェイミーも死んでしまった物語において、唯一生存しているのは猛禽類とPSPだけである。そして、問題の第3部。二人(いや、1匹と1つ)の恋…PSPの画面に映し出された白く美しいカラスに1匹の猛禽類が恋をしてしまうも、その無反応への苛立ちから自らの衝撃波で画面もろとも粉砕し、なぜかその怒りは人類全体へと向けられる。第3部までで登場人物はPSP含む4体だけなのに、このボリューム、この濃厚さ、この密度。センター試験の算数でこの本の密度を求める問題が出るのは時間の問題だろう。

この物語から学べること、それは「自分の無意識に囚われるな!」という一点に尽きる。なぜならば第3部で、猛禽類の復讐劇を期待していた読者の想像の彼方から、ネクロマンサーとしてこの世に復活した吉崎とジェイミーがその野望を封じ込めるからである。ここからは1000年にも及ぶ壮絶な闘いの歴史が述べ4000頁にわたって描かれる。1年あたり4ページ。そうこれは巧妙に編まれた巨大な年代史なのだ。ネジを巻かれて初めて飛び立つような、そんなオモチャのような小鳥ではなく、猛禽類とネクロマンサーの壮大な闘いの記録。本来ならば「非ねじまき鳥クロニクル」であるべき本書が、その「非」を除いたタイトルになっている意図については、読後に明らかになる。未読の読者のために結語は敢えて伏せておくが、ネクロマンサーとして猛禽類を打尽する吉崎の以下の台詞を紹介するに留めよう。

「道楽で駄菓子屋やってんなら、とっととおかしのまちおかに喰われちまえよ、ババア!消費者の気持ちになれ!」

我々はこの物語に出会わなければ、もっと傲慢で怠惰で醜い動物に成り下がっていたと思う。この一冊は全ての人類と猛禽類、そしてPSPとネクロマンサーが読むべき、今世紀最大の問題作といっても過言ではないだろう。

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