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「死にたい」という想いを尊重する方法は「死」以外にもあるはず【雑感】

時に、人は「死にたい」という想いに駆られることがあります。中には、重い病気に苦しむ中で、長い間ずっと「死にたい」という想いを抱える人もいます。

京都で起きたALS女性に対する「嘱託殺人事件」(※1)は、ALSという難病を抱えた女性の「死にたい」という想い、言い換えれば "願い" を 外部の人間が実際に "叶えてしまった” 事件でした。

そうした背景があるからか、この事件で殺人に関与した医師が裁かれることに対して反対意見を持つ声や、この事件によって亡くなった女性に対して「願いが叶って良かった」といった声を見ることは少なくありません。

ただ、その報道を見てからずっとモヤモヤしてきたことがあります。それは、「死にたい」という想いを尊重する手段は、本当に「その人の死」なのかということです。

もう少し言うと「死にたい」と声をあげている人にとって、本当に「死」がゴールなのかということです。

「死にたい」という言葉について、私たちは表面的にとらえるだけでなく、その真意を読みとっていくことが必要だと思います。本稿は、この「死にたい」という言葉について、自分の思うところを述べます。

長文ですが、どうぞお付き合いください。

※1:本事件のことを「安楽死」と呼んでいる人もいますが、明らかに安楽死の要件を満たさないような行為を安楽死と呼ぶことは、安楽死を議論する上でも良くないことと考えるため、本稿では「嘱託殺人」としました。


「死にたい」と「生きたい」の関係

「『死にたい』と言っている人も、実際には『死にたい』という気持ちと『生きたい』という気持ちが揺れ動く中で生きている」という話をしばしば聞きます。自分は、この言葉が半分あたっていて、半分まちがっていると思っています。

半分あたっているというのは、日常生活の中には確かに「死にたい」という気持ちになる時間と、そうした気持ちにならない時間(「生きたい」まで行くかは人によると思いますが)が存在するということです(※2)。

そういう意味では、この二つの気持ちは正反対のものであり、振り子の両極にあるようにも思えます。

ただ、半分まちがっていると書いたのは、この二つの気持ち(「死にたい」と「生きたい」)は同時に生じる気持ちでもあり、本質は同じなのではないかということです。少し詳しく考えてみます。

そもそも「生きる」という行為は「現状維持」と言える行為です。当たり前のことですが、現状として「生きている」からです。

(こういう言い方は誤解を生みかねないものの)一般論として「生きたいと思わなくても(物理的には)生きていくことができる」とも言えるでしょう。現状から何も変えない限り、物理的には生きることができるからです。

結局何が言いたいかと言えば、「死にたい」という "変化" を求める言葉の背景には「現状(生きること)への不満」があるということです。そして、不満があるということは、現状よりも「よい生への期待や望み」があると言えるのではないでしょうか。

少し難しい言い方をしてしまいましたが、簡単に言えば「もっとよい生き方をしたい」からこそ「死にたい」という想いが生まれるということです。「死にたい」という言葉は「死」の願望のようで、「生」の願望をも内包した言葉なのです。

そう考えれば「死にたい」と「生きたい」は、振り子の両極というよりも、コインの表裏のような関係、もっと言えば、反対の気持ちというよりも「根っこは同じ気持ち」とすら言えるかもしれません。

以下に紹介するのは、生命倫理学者の安藤泰至さんの見解です。

まず、「死にたい」と強く訴えている人は「生きたくない」のだと考えるのは間違いである。人が「生きたい」というのは単に「生存したい」「生き延びたい」ということではなく、「人として生きる意味や価値をもって生きたい」ということだ。そうした意味や価値をもって生きられないような状況に陥ったとき、人は「死にたい」と思う。逆説的な言い方になるが、人は「生きたい」からこそ「死にたい」と思うのである。したがって、「生きたい」と「死にたい」というのは両極にある思いではなく、いわばコインの裏表のようなもので、状況次第で、また出会う人との関わり次第で、いつでもひっくり返る。

【出典】日本でも安楽死合法化の議論を始めるべきか?
http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber/20201019.html

ただ、実際に「死にたい」という想いを持ち、そうした声をあげる人にとって「死にたいと言う人も本当は生きたい」という見解は、自らの気持ちが否定されているようなものですし、非常に「嫌な意見」なのではないかと思います(少なくとも私にとってはそうです)。

だからこそ、こうした見解が「死にたい」という想いを持った当事者の方に無理に受け入れられてほしいとは思いません。そもそも「死にたい」という想いを持つことを周囲の人間が否定することはできないと思いますし、「あなた本当は生きたいんでしょ」と周囲が決めつけるのは傲慢でしょう。

「死にたい」と「生きたい」がたとえ表裏一体のものであったとしても、その人にとって「死にたい」という気持ちに嘘偽りはありません。そうした想いを周囲が簡単に否定することはできません。

ここで考えたいのは、「死にたい」という言葉の中にも「生きたい」というニュアンスがあると考えれば、(実際に「死」を迎えるまでの間だけでも)それ以外の手段で寄り添うことが可能なのではないかということです。

※2:少し余談ですが、今夏に自殺で亡くなった俳優の方について「直前まで仕事をしていた」「直前まで親族と連絡をしていた」といったことが報じられ、「そんな中でどうして?」といった声がみられたことについても、こうした観点が役に立つと思います。すなわち、自殺した人も、いつも「死にたい」と考えているわけではないということです。「自殺の兆候」を見つけるのは本当に難しいことだと思います。


「死にたい」という気持ちは外からやってくる

ところで、「死にたい」という想いを実際の「死」によって実現することを正当化するならば、その「死にたい」という気持ちが本人の気持ちである必要があります。

ただ、そうした気持ちがどこから湧いてくるものなのかを考えることも必要だと思います。

「ウェルテル効果」(※3)という現象があります。簡単に言えば、マスメディアの自殺報道によって自殺が増えるというものです。本稿の文脈に合わせて言えば「マスメディアの自殺報道を見聞きすることで人びとの『死にたい』という気持ちが高まる現象」とも言えるでしょう。

では、このようにして高まった「死にたい」という想いは「死」によって実現されるべきでしょうか。

もちろん「死にたい」という気持ちは "本人の" 気持ちと言えるでしょう。しかし、どこか釈然としない気持ちになります。本人の気持ちではあるものの、マスメディアの影響を明らかに受けている以上、本人の気持ちではないようにも思えるからです。

以下のような声はどうでしょうか。あるALS患者がインタビューで語ったことです。このようにして高まった「死にたい」という気持ちを見て、その人の「死」が実現した方が良いと言えるでしょうか。

つらいことがあると、死にたくなってしまうのです。例えば、事業所の人間関係に悩んだときとか、同じ病気の方に「これから先どうやって生きていこうか」という相談をされて仲良くなった方が、亡くなってしまったときなどです。中でも妻に死なれたときは1年以上死ぬことについて考え続けました。具体的な方法を何度も考えました。呼吸器を外せないか、何かトラブルを起こせないかと毎日考えたのですが、無理でした。

【出典】“安楽死”をめぐって(1)NPO「境を越えて」理事長・岡部宏生さんに聞く(NHK ハートネット)
https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/423/
〔※強調は筆者による〕

前節で「死にたい」という気持ちには波があるということを述べましたが、そうした気持ちの波はこのように外的な要因(社会)の影響を大きく受けます。これは、難病当事者や精神疾患を持っている人以外の人も含めて当たり前のことでしょう。

さらに、こうした外的な要因(経験)の積み重ねが本人の「死にたい」という想いを形成していくとも言えます。しばしば「死にたい」という想いを「死生観」という言葉を用いて "個人の価値観” の影響が大きいように語る人もいますが、実際のところ、(そうした "価値観" も含めて)経験による影響、言い換えれば社会的な影響が大きいのではないでしょうか。

そして特に、他者の死による影響の大きさは無視できないと思います。「死」は少なからず連鎖していくものだからです。

もっと言えば、誰かの「死にたい」を叶える(「死」を実現する)ことが、他人の「死にたい」という気持ちを助長し、その人の「死にたい」を叶えることでさらなる別の人の「死にたい」が助長されていく、そんな状況になることも考えなくてはならないように思います。

もちろん、「死にたい」という気持ちが「他者の死」のみから影響を受けるわけではないですし、このような図式だけで語れるほど「死にたい」という想いは単純なものではないでしょう。

しかし、少なくとも「死にたい」という言葉を「死」で実現したいと考えるならば、その言葉が本人の "外側” から影響を受けているということを無視してはならないと思います。「死にたい」と 社会によって "思わされて"、実際に "殺される” 人を生み出さないためにもです。

少しだけ補足をしておくと、京都の嘱託殺人事件で亡くなった方については、NHKの「安楽死」番組による影響があったという報道があります。もちろん、実際のところがどの程度の影響だったのかは分かりませんが。

番組に影響を受けていたとしても、その女性の「死にたい」という気持ちに嘘はなかったと思います。ただ、テレビ番組という形での社会的影響が少なからずあったのだとしたら、このような「死」が本人の意思を尊重したゴールとして適切だったのかという気持ちは捨てきれません。

中でも、スイスでの安楽死をテーマにした昨年6月放送のNHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」を見て、自殺ほう助への思いも強めていった。「難病、とりわけALS患者は生と死を思うのが日常だと思う。彼女は死についても、自分で決めたいという意思が強い人だった」と話す。

【出典】死への思い「NHK番組観て」傾斜か 「安楽死」のALS女性、主治医が初めて語る姿(京都新聞)
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/319053
※3:参考文献
齊尾 武郎(2012)Werther 効果と Papageno 効果: 自殺予防におけるマスメディアの功罪について(pdf)


「死にたい」という気持ちと共に生きていく

「死にたい」と想う人が死ぬことができる社会。
このような社会を「幸せな社会」と言えるでしょうか。これは確かに個人の死生観の問題であり、色々な見解があると思います。当然ながら正解や不正解はありません。

こんな質問だったらどうでしょう。
「死にたい」と想う人が "簡単に” 死ぬことができる社会。
「死にたい」と想う人が "楽に" 死ぬことができる社会。

もう少し賛成者が増える気がします。

しかし、自分が望む社会はこの中にはありません。自分ならこんな社会を目指したいなと思います。

「死にたい」と想う人が "少しでも幸せに” 生きることができる社会。

「死にたい」という想いを持った人の気持ちに寄り添う上でのゴールは、字面通りに「死」を叶えることだけではないはずです。むしろ「生」を変えていくことにこそ、本来のゴールがあるようにすら思えます。

最終的には「死」を "自らの手で" 選ぶことになる人もいるかもしれませんが、せめてそれまでの「生」をより幸福なものにすることを模索できるのではないでしょうか。

少し余談ですが、そもそも「死にたい」というのは "思考” とか "感情” といった類いのものであり、その当事者さえもコントロールできるものではありません。無理になくそうとする必要はないどころか、無理になくすことはできないのです。

でも、その想いを消し去ることができなかったとしても、言い換えれば「死にたい」という想いを "持ちながら" でも、生きていくことはできます。より具体的に言えば、「死にたい」という想いに "過度に" とらわれない生活が実現できたら良いのではないかと思います(※4)。

ところで、本稿では「死にたい」という言葉に着目しましたが、この言葉を一つとっても、実際には発する人によって様々な想いが込められているはずです。表面的にではなく、その目の前の「死にたい」という言葉の中に含まれる想いを解きほぐしていくことが必要でしょう。これは「死にたい」以外の言葉にも言えることです。

さらに、「死にたい」という想いを持っていても、それを言葉にして示すことができない人もいます。私自身、周囲に遠慮してしまい、「死にたい」という気持ちを周囲に相談できなかった一人です。「死にたい」と言えない人もまた "幸せに” 生きていくためには何ができるでしょうか。

「『死にたい』と想っていた人が死ぬことができたなら幸せだ」と言い切ってしまうのは、(厳しい言い方をすれば)思考停止とさえ思います。その前にやれることがまだまだあるはずです。

「死にたい」と言って苦しんでいる人に、ナイフではなく、あったかいココアを差し出せるような、そんな社会を目指せないでしょうか。

※4:さらに脱線してしまいますが、こうした生き方の参考になり得るかと思うのが、「ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)」と呼ばれる心理療法です。ACTに限らず、心理学などの知見を有効に活用することは「死にたい」と想う人が少しでも「生きやすい」と思う社会を作っていく上で重要なことだと感じます。


以下は、本論とは少し逸れるものの、書き残しておきたかったおまけです。


おまけ(安楽死について)※雑文です

個人的には「安楽死」制度についても、似たようなことを考えています。つまり「死ぬ権利」のために安楽死制度を実現するということではなく、「死にたい」と想う人がより幸せに「生きる」ための安楽死制度という議論が必要ではないかということです。

死にたいときに安らかに死ねるという保証があれば、生きる勇気になることもある。実際、オランダでも安楽死を決めた人が死を先延ばしすることがある。日本では、死の願望を受け止めることも緩和ケアの一環だという認識が低い。「ベストを尽くせば皆、生きたがる」というのは、ある意味で自己満足的な考えだ。障害者である前に一個人の意思として受け止めるべきではないか。

【出典】インタビュー連載「安楽死を問う」⑤ 安楽死「先進国」オランダから見た日本は 逆に生きる勇気になることも 現地在住のシャボットあかねさん(共同通信)
https://www.47news.jp/5191100.html
〔※強調は筆者による〕
安楽死制度は重篤な疾患にかかったときの救済手段、心のよりどころ。セーフティーネットというか、生きやすさにつながる、副次的な効果をもたらすものとしてもとても期待しています」(p.2)

「安楽死をはけ口のように使うことや、死ぬ権利と結びつけることはどこか違うのではないかと思っています。死ぬ権利はあってもいいし“安楽死で死にたい”と発言することはできますが、安楽死そのものは誰でも簡単に受けられるものにすべきではないと思うんです。一切の恐怖や覚悟なく安楽には死ねませんからね。これはあくまでも自殺なので」(p.4)

【出典】スイスから“死の権利”を得た女性を直撃「やっと死ねる。安楽死は心のよりどころ」(週刊女性)
https://www.jprime.jp/articles/-/17026
〔※強調は原文ママ〕

先に引用したALS患者の岡部さんの記事にも同様の心境が書かれています。

つらいことがあると、死にたくなってしまうのです。〔中略〕そんなときに私もスイスにいけば死ねるのだと知ったときは、本当に安ど感を感じました。自分も死を選択できるのだと、分かったときの安ど感は今も忘れられません。

【出典】“安楽死”をめぐって(1)NPO「境を越えて」理事長・岡部宏生さんに聞く(NHK ハートネット)
https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/423/
〔※強調は筆者による〕

最近、2014年に放送されたドラマ『死神くん』が再放送されていたのを観ましたが、第3話に登場した令嬢(杉咲花)が、死神(大野智)から余命を宣告された後に、いきいきと「生きる」ようになった様子を見て、自らに「死」というゴールが見えることによって、よりよく生きられることが確かにあるんだろうと痛感しました。

ALSのような難病も精神疾患も、多くの場合「できないことが増えていく」という苦しみがあります。その中で「死ぬことすらできない」という感覚は深い絶望感を与えるだろうと思います。

真っ暗なトンネルも、出口があると分かっていればどうにか進むことができるでしょうが、出口があるのかさえ分からなくなれば、進む意欲は失われてしまうでしょう。

余談を少し。以前、長野県の「善光寺」というお寺に行ったのですが、その中に「お戒壇巡り」と呼ばれる、暗闇の中を手探りで進んでいくことのできる場所があります。

「暗闇の中を進む」というのが恐ろしいことであり、そして最後にわずかな光が見えたときこれほどまでに安堵するものかと、身をもって体験したことをよく覚えています。

話を戻しますが、そんな風に暗いトンネルを進んでいる人に対して、周囲の人間はどんな助けをできるでしょうか。一つは、安心できる「出口」を整えることだと思います。それこそが「安楽死」制度なのかもしれません。

ただ、それ以外にも助ける方法はあるはずです。

たとえば、トンネルを少しでも明るく照らすということ(日常生活の改善)、トンネルを共に歩く仲間を見つけること(当事者仲間をつくる)、他にもいろいろあるかもしれません。

一方、「安楽死」制度は、他の人のトンネルをより暗いものにしてしまうリスクが否めません。簡単に手を出していいものではないでしょう。

ちなみに、自分自身は「安楽死」制度にどちらかといえば反対していますが、詳しい話はまたの機会にしたいと思います。

最後に。『死神くん』の第4話では、火災事故に巻き込まれ、更には誰かがまもなく死んでしまうという「運命」を告げられ、極限状況になっている5人の人間たち(正確には大人4人)に向かって、死神(大野智)がこんなことを言います。

「死は運命で決まってます。しかし“生”は、どんな状況で生き残るかは、何も決まってない。(中略)どんな風に残りの人生を生きるか、自分たちで切り開かないとダメなんです。」

こうした言葉にも何かヒントが隠されているような気がします。

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