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まじめだからこそ"死"について考えてしまうのかもしれない【雑感】

ロックバンド・amazarashi の「僕が死のうと思ったのは」という曲にこんな一節がある。

死ぬことばかり考えてしまうのは
きっと生きることに真面目すぎるから

出典:「僕が死のうと思ったのは」- amazarashi

amazarashi が歌っているように「まじめ」というのは、案外やっかいなものなのかもしれない。

自殺と殺人と「まじめ」

先日、俳優の三浦春馬さんが自殺によって亡くなられた。好きな俳優さんの一人だっただけに非常に悲しみを覚えた。そんな三浦さんの生前について記されている記事がいくつも出されているが、その中では三浦さんが「まじめな」人だったと語られていることが多い。

映画や舞台、テレビ番組で仕事を共にした関係者は、三浦さんの印象について「とにかくストイック」「仕事に対して真面目」と口をそろえた。

出典:死去の三浦春馬さんは「真面目すぎるくらい真面目」(日刊スポーツ)

三浦さんの死を「まじめだったから自殺してしまった」と結論づけるのはさすがに浅はかだと思うが、人の "死” にかかわるさまざまな話題に、しばしば「まじめ」という言葉が出てくるのもまた事実のように思っている。

先日、ALS の女性(林優里さん)に対する "嘱託殺人" 事件が話題となった。この話題は「安楽死」という言葉で報じられることが多いが、林さんの立場からみれば、三浦春馬さんのような "自殺" とも言える。

その女性の主治医がコメントを寄せた記事から見えてくるのも、林さんという女性の「まじめさ」である。林さんは、生きることにまじめだったからこそ「死」についてもまじめに考えていたように見える。

まさに、amazarashi が歌ったように「生きることにまじめすぎ」たからこそ、死を望んでいったように思えてならない。

林さん自身、治療に前向きな姿勢を見せていた。インターネットを使って最新の薬などを調べ、主治医に相談を持ち掛けることもあったといい、「生きるために色んな努力をしていた」と強調する。

〈中略〉

「難病、とりわけALS患者は生と死を思うのが日常だと思う。彼女は死についても、自分で決めたいという意思が強い人だった」

出典:死への思い「NHK番組観て」傾斜か 「安楽死」のALS女性、主治医が初めて語る姿(京都新聞)

また、2016年に起こった相模原障害者施設殺傷事件を実行した植松聖死刑囚についても、接見をした多くの人から「まじめさ」が語られている。

例えば、作家の雨宮処凛は、植松について「融通がきかないほどの真面目さ」があるのではないかと表現している。

植松が「こんな生活をしている障害者はかわいそうだ」というようなことを言い始めた時、何か他にできることがあるのではないかと介助の勉強をしたり、違う施設に見学に行ったり、障害者運動を学ぶことだってできた。でも彼は、殺す方向に行った。

〈中略〉

答えが出ないような彼の深い悩みに応じられる人がいなかった。もしかしたら、植松死刑囚はものすごく真面目だったのではないかとも思います。融通がきかないほどの真面目さ。

出典:相模原事件後も止まらない「命の選別」 医療の世界の「自己決定」と「自己責任論」(BuzzFeed)

死ぬことを認めたいという声

ところで、"嘱託殺人" 事件や、これまでの "安楽死" に関する議論の中では、「生きる権利」を尊重すべきであると語られる一方で、われわれが「死ぬ権利」についても尊重すべきであると語る言説が少なくない。

日本での「安楽死」の導入について議論した AbemaTV の番組での出演者のやりとりはその典型だったと思う。

たとえば、お笑い芸人・カンニング竹山は「僕がこの女性の介護をしていたとしたら、“この人にとっては、死ぬことが一番幸せなのではないか”と考えてしまっただろうし、“死ぬのはダメだ”と言うことができただろうかと思う」と語る。

ギャルユニット「Black Diamond」のリーダー・あおちゃんぺは「一人で抱え込えこまなくてはならないこともあると考えると、安楽死がダメとは言いづらい。生きることがそんなに偉いのかなと思うし、自殺や安楽死を選ぶのが悪いことだとは思えない。確かに悲しむ人がいるかもしれないが、結局は自分の人生だ。死んだ方がハッピーだと思う人の人生も尊重すればいいのではないかと思うし、私は生き方も死に方も自分で決めたい」と語っている。

こういう発言からも「まじめさ」を汲み取ってしまうのは私だけだろうか。

「生きる」ということには絶対的な価値を見出さず、逆に「死ぬ」ことが不幸だとも決めつけない。こうした、絶対的な価値とされていたものを疑っていく姿勢は、ある意味で現代社会でよく言われている "クリティカルシンキング" をまじめに実践しているだけと言えるかもしれない。

自分の知人でも「そんなに長生きしたくない」と堂々と語る人はいるし、世の中にはあおちゃんぺが言うように「死んだ方がハッピーだ」とすら思う人もいるだろう。また、自分がそうは思っていなくても、まじめに考える人にとっては「他者の意見を尊重しましょう」とされるような社会の中では「死を肯定する意見」さえも否定しづらい。こうやって、まじめに考えてしまうからこそ「生の価値」が不安定なものになっているように思う。

"嘱託殺人" 事件を踏まえるならば、そうした価値観は医療現場にも入っていくのかもしれない。従来の医療は「延命」が中核にあったと思うが、それも変わっていくのだろうか。病気になったときに、薬を飲むことや、入院すること、手術をすることが「良いこと」ではなくなる時代が来るのかもしれない。

また、未来に対する希望の低さ(+現在志向)が生の価値を押し下げているからだろうか、「生きていればいいことだってある」みたいな "正論" はあまり受け入れられなくなってきているような感覚がある。同時に、生の価値はどんどん下がり、死の価値がどんどん上がっているような感覚もある。

そして、相模原事件の植松のように「他人の生」を奪う行為を否定する一方で、自殺や安楽死といった「自分の生」を奪う行為については肯定する人が多いように見える。どちらも「生の価値を下げる」という意味では同じ根っこであるのだが。

昨年の川崎殺傷事件で起こった「死にたいなら一人で死ぬべき」という声はまさにこうした価値観を反映しているように思う。

そう考えていくと、その中間を行くような "嘱託殺人" 事件についても、医師が「他人の生」を奪ったとみなした人は否定的に、林さんという女性が「自分の生」を奪ったとみなした人は肯定的にとらえるということが起こっているのかもしれない。

「生きる」ということ

ただ、"まじめに" 考えてみれば「生きる」ということは、そもそも「めんどくさい」ことだと思う。とても幸せな暮らしをしている人はそうでもないかもしれないが、生きていくためには多くの「めんどくさい」を乗り越えなければならない人がほとんどだろう。

そこだけに注目すれば「生きてるだけですでに不幸」なのかもしれない。そもそも「生」についてまじめに考えると、そんなに価値はないような気がするのである。少し言い過ぎだろうか。

それに対して、死んでしまえば、多くの「めんどくさい」からは確かに解放される。ある意味 "合理的" である。別の言い方をしよう。”まじめに” 考えると、「死ぬ」ことは「生きるか死ぬか」という問題の "一つの正解" と言えるだろう。ちゃんと考えれば、死ぬことにも価値はあるのだから。

これまでは「生きていればいいこともある」といった言葉にも現れるように未来を強調して”反論”してきたが、そういう言葉が通用しなくなった中で「死ぬことの良さ」をどうやって否定できるだろう。もっと言えば、”答え” が複数あるという価値観に対して反論できるだろうか。

正直、よく分からない。反論する必要があるのかさえも分からない。

ただ、こうやって「生きること」や「死ぬこと」について考えるからこそ「生の価値」が不安定になって押し下げられている面は否定できない。つまり「生きること」も「死ぬこと」もそんなにまじめに考えすぎなくてもいいのではないかということは書いておきたい。

「生きるか、死ぬか」。どうせ "絶対的な正解” なんて存在しない問いである。「とりあえず生きる」ことだって悪くない。そこに理由はいらない。「生きる意味」がよく分からなくても生きている意味はある。そうやって言い切ってみたいなぁと個人的には思う。

結局、あれこれ考えるからダメなんじゃないだろうか。まじめに考えてしまえば、死ぬということは「合理的」にも思えるだろうし、そういう選択肢も尊重できると考えてしまうだろう。でも、そういう価値観が広がって「死にたいと思ったら簡単に死ねる社会」が本当にすばらしいのだろうか

日常的に「死にたい」と考えている自分のような人間からすると、周りからあっさりと「死んでいいよ」と言われたらけっこう簡単に死んでしまえる気がする。だから、あんまり簡単に「死ぬことを尊重する」社会になってほしいとはどうにも思えない。自己責任的に突き放されたような感覚もある。

嫌な言い方をしてしまえば、「死ぬ権利を尊重したい」なんて言える人の多くは「死にたい」と思っていない人か、死ぬことに恐怖を感じていない人のどちらかだろうと思える。そのくらい「死ぬ権利の尊重」という言葉は個人的に怖い。

いざ、自分が "本当に" 死にそうになったとき、そういう人たちは何を思うのだろうか。

こういう時に、自分は『夢十夜』(夏目漱石)の第七夜をふと思い出す。

 自分はますますつまらなくなった。とうとう死ぬ事に決心した。それである晩、あたりに人のいない時分、思い切って海の中へ飛び込んだ。ところが――自分の足が甲板(かんぱん)を離れて、船と縁が切れたその刹那(せつな)に、急に命が惜しくなった。心の底からよせばよかったと思った。けれども、もう遅い。自分は厭(いや)でも応でも海の中へ這入らなければならない。ただ大変高くできていた船と見えて、身体は船を離れたけれども、足は容易に水に着かない。しかし捕(つか)まえるものがないから、しだいしだいに水に近づいて来る。いくら足を縮(ちぢ)めても近づいて来る。水の色は黒かった。

 そのうち船は例の通り黒い煙(けぶり)を吐いて、通り過ぎてしまった。自分はどこへ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の後悔と恐怖とを抱(いだ)いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。

出典:『夢十夜』より「第七夜」(夏目漱石)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/799_14972.html(青空文庫)

やっぱり、世の中には「絶対的に価値がある」と言い切っておいた方がよいものもあるような気がしてならない。

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