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しりとり『宿題』

ラム酒→宿題

努力家の哀しみ

宿題と試験の関係について、以下の4つに分類してみる。

1、宿題もできるし、試験もできる人。
2、宿題はできるのに、試験はできない人。
3、宿題はできないのに、試験はできる人。
4、宿題もできないし、試験もできない人。
 

中高生の時に周囲から尊敬されるのは無論、3番の天才肌タイプである。
普段は遊び呆けていて先生から叱られてばかりいるが、入試試験となると1番の生真面目タイプに負けず劣らずの成績を取るような人。

ちゃらんぽらんな姿を見続けてきた周囲はあっと驚き、ヤツは学校の枠組みに当てはまらない天才だ!、と途端に持て囃すようになる。

そして1番は、勉強しているのに3番に敵わない哀れな脇役として扱われて、3番だけに羨望の眼差しが送られるようになる。

天才肌を作るには

どうしてこのような理不尽が起こるのかというと、人は一本線の通った筋道ではなく、意外性を孕んだ物語が好きだからである。

読み手はいつも逆説による興奮、『起承転結』の”転”・”結”の中にある、アッと驚く逸脱と、心地良い読後感を求めているのだ。

中高生が勉強をする理由を簡単に、「より偏差値の高い学校に進学すること」だと仮定すると、入学試験に合格することが”結”となる。
そして宿題は、良い”結”を産むための土台となる”承”ということができる。

上記の4つの分類でいえば、
1番は想定外の”転”がないので物語として面白くない。宿題ができれば試験もできるのは当然の流れだ。
2番だと逆説が成り立ち“転”で逸脱するものの、”結”が物悲しくなってしまう(しかし先生から好かれるタイプは2番が多い)。
そして4番は初めから何も起こらないため物語として成り立ち得ない。

しかし最後に3番となると、”承”から逆説的に繋がっていく”結”の意外性が心地良い。
それと同時に乖離した”結”と”承”を隔てる大きな落差、即ち”転”の中に、谷底に隠されている秘密のような匂いを感じさせるため、多くの人から面白がられるのだろう。

この秘密の匂いは天才肌という言葉で好意的に表現されるものの、実のところその正体は、手品と同じで種も仕掛けもあるギミックに過ぎない場合が多い。

要するに、同じ”結”=試験ができる、を得るのであれば、宿題などはやってこずにあたかも手品のように、結果だけを出す方が周囲から評価されるため得だ、ということだ。

同じことをしてもたったそれだけで、周囲から一目置かれるようになったりする。

宿題の意義

しかし、学生間における評価と異なり、会社やコミュニティの中で実際に重宝される人の順序は3,1,2,4ではなく、1,2,3,4である。

何故ならば、仕事が必要とするものは起承転結で成立する物語ではなく、起承結で成立してしまう筋道だからだ

ここで重要なことは、”起”から”結”に至るために明快なプロセスをなぞることと、その再現性を獲得することであり、物語を産み出す”転”は排除されるべき不確かなリスクとなってしまう。

もっというと、”転”につながりうる”結”ですら不要である。
会社の業績を大きな”結”とするならば、個々の従業員が産み出す小さな”結”は、”承”としての性格を持つからである。
個々が全員”結”を産まずとも、確実な”承”を無数に積み重ねていけば、大きな”結”はほぼ確実に達成されることになる。

そうやって僕たちが産んだ"結"や、結にすらなれない"承"でさえ、生産性という名の下に数値化されてその物語性を更に削り取られていく。

だからこそ、3番の“転”を孕む”結”よりも、2番の”結”を産まない”承”の方が好まれるのだ。
確実な”承”を産むための『宿題ができる能力』が何よりも必要とされる。
想定外の”転”は、会社に巣食う癌細胞でしかないのである。

学生時代に宿題を忌み嫌ってきた僕のような人間は、社会に出てからも宿題に泣かされ続けるわけである。

想像力の復讐

こう考えてみると、起承結で一直線に結ばれて、試験という"結"だけでなく宿題という"承"すらも、評価システムに組み込んだ学校の教育カリキュラムはとてもよく出来ている。

この計画の中で教師たちは、生徒に問いと答え・道筋という型を与え、宿題という類似問題を何度も反復させることを通じ、その道筋の辿り方を我慢強く覚え込ませていくことができるからだ。

誰しもが会社の中で、大きな”結”を導き出すための小さな"結"や、確実な”承”を無数に生み出せるよう小中高で訓練されていく。
実に効率が良いシステムだと思う。

だけれど先に述べたように、訓練する側の先生にしても、訓練される側の生徒にしても、彼らが無性に惹かれてしまうのは、起承結で完結した人間ではなく、”転”を抱えた人間だ。

”やらないのに何故かできる”、”やるのに何故かできない”といった想定外な逸脱、そこに隠されている秘密に興味を持ってしまう。

つまり、社会がどんなにシステマナイズされてその物語性を失ったとしても、人間の理不尽な想像力までを失わせることは不可能なのだろう。

そしてこのバグはシステムに対する、物語による人間性の復讐であるとも言える。

理不尽な愛されテクニック

ちなみにこれは、“愛されテクニック”にも応用可能である。

貴方が『付き合えそうで付き合えなかった相手』を思い出して欲しい。
彼女や彼はいつだってミステリアスで、近くにいるのに手が届かない不思議な存在ではなかっただろうか。

"起承"までは順調に進んでいるように見えるのに、"結"にはどう足掻いても辿り着けない。
”起承”と”結”の間にある、秘密の魔力を発する”転”という断絶の谷。

こちらの切実な祈りに反して、その谷の中には何もないことが多い。
種や仕掛けがあれば良いが、それすらもない。

あるとすれば、「お腹すいた」とか「カラオケ行きたい」とか「やっば、明日やることねーわ」といった泡のように軽い煩悩だけである。

しかしその谷底には、ブラックボックスと化した謎を解き明かそうと勇気果敢に飛び降りた、馬鹿な男女たちの亡骸が無数に横たわっている。

もちろん、僕の死体もいくつかある。

アーメン。

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