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Well Jiing !! 第2章、お寺と市民の関係

お寺も市民も悩む時代

~お寺ができることと市民のニーズが合わさる価値創造を~
 
高齢化や医療の発展によりある程度死の原因が明確になってきた世の中に新型ウィルスも到来し、何しろ死ぬ順番がわからないフラットな世界が現れました。「自分は生きられるか?」「今自分が死んだらどうしよう?」そのような生死にまつわる不安を抱えた市民が、お寺の周囲には潜在します。何か答えが欲しい、安心したい、そのような市民の不安に対してお寺ができる事は法話や祈願など色々ありそうですし、既に多くのお寺が素晴らしい取り組みをされています。
 
しかし、想いやポテンシャルを持ちつつも、なかなか取り組めなかったり、取り組みを伝えきれていないお寺が多い現実もお見受けします。多くのお寺は観光寺院ではなく住職は日々の法務で忙しい。新しいことに取り組む余力や人手がいないお寺は多いと思います。また、住職が兼業をしないと成り立たない場合、何しろ忙しい。新たな布教より優先すべき檀信徒のための護持がある、ともいえるかもしれません。
 
翻って、市民一人一人も生活や病気、いろいろなことを抱え、将来の不安と付き合いながら、生きています。市民には市民の、お寺にはお寺の悩みがあります。
 
まずは現状を大きく変えない中で、お寺が市民に提供できることを届けられないか?お寺と市民の付き合いを過去から振り返る過程で、市民ニーズと合致するところを少しづつ表出してゆければと想います。
 

お寺と市民の関係は、左脳的である限り、明るくない


経済が右肩上がりの時代に、多くのお寺が左脳的な数字(金銭等)を優先した結果、市民とお寺には、小さくない乖離が生じたと思います。特に今は経済が二極化し、人口も減少傾向、今後も右肩上がりにはならないかもしれない。

バブル期の見栄は希薄になり、特にコロナ禍の今、市民がお寺に求める内容の多くは「救い」や「安心」、つまり布教の本質に近い内容だと考えます。話を聴いて欲しい、安心できる言葉を聞きたい、お守りや御朱印をいただきたい。感情、体験、ひいては右脳に訴えること。双方に納得感と感謝のバランスが取れる喜捨が求められるとも思います。

しかし、いざお葬式やお墓のこととなるとどうでしょうか?「葬儀社への支払いだけでなく、お布施を用意できるだろうか?」「お墓を継ぐとは言ったけど、永代供養や墓地の整理費用を出せるだろうか?」など、市民はお葬式やお墓にまつわることはとたんに経済的な不安に直面する傾向にあります。
その時、お寺はどう応えていけるのか?

昔のお葬式は、お互い様。香典でお葬式費用をある程度まかなえたり、親戚や地域の人達がいて精神面でも心のケアをしてくれる人は多くいた。しかし、家族葬や火葬式となると、香典も断ることが多く経済的な負担は全て自前です。求めない限り宗教者による心のケアはなく、あるのは親族の死という現実、そして目の前にある故人のご遺骨です。 

ある時から戒名は貨幣の対価(戒名料)になってしまい、お寺側もそこを甘受してきた。異論もあると思いますが、一般的には多くのお寺にあてはまる現実ではないでしょうか。お墓においては、多くのお寺が空き墓地を、永代使用料という貨幣価値に置き替えてきました。

経済面とどう付き合うかは、今後のお寺が現在の市民をつきあうひとつのテーマといえると思います。そしてサブスクリプションやふるさと納税、投げ銭、など方法も増えるなか、興味深い話だと思います。
 

お寺と市民の関係を新しく構築する気概を


日本は少子高齢化と生涯独身率が上昇しています。成熟社会とも言うそうですが、少なくとも平成生まれが30代を迎えた今、世代間の価値観には大きな違いが存在します。仮に子供がいても結婚したり孫を産み育てるかわからない、さて、うちのお墓は誰が継げるのか?

交通の発達や都市化、家長父制も薄れた中で、地元や実家という認識も薄くなっていくと思います。親戚も少なくなります。社会人になればどこに住んでもいい。住むのは国外かもしれない。実家にいつか帰る定めがあるわけではない。

自由という切符が様々な選択肢に対して与えられた今、「想いは継承しづらい」という現実が強く存在していると思います。「おじいちゃんが熱心に信仰してこのお寺にお墓を建てたのよ」という状況でも、お寺の住職が代替わりしているときには、その傾向は顕著です。肝心のおじいちゃんのことを代替わりした今の住職が直接は知らないのです。戒名やご命日はお寺の記録にある。でもそれくらいなら孫も知りうる情報です。

信心は形にしづらいものであり、本来無形です。おじいちゃんから代々想いが受け継がれる例はあると思いますが、3世代同居が減っている今の世の中では、やはり少しずつ受け継がれづらくなっていると言えるのではないでしょうか。世の中的には対価のように受け止められているお布施のことだけでなく、そもそもの想いも面でも、家のお墓があるお寺との距離は生まれやすくなります。

しかし、それを解消する方法はあります。檀家世帯との接点の増加、記録、そして今のお寺(住職)と次世代との交流の増加、その繰り返しです。
そして、現在どのお寺との付き合いも持たない市民とも、接点をつくる。何かしらの役に立ち、その方のライフストーリーに伴奏し記録し、子や孫の役にも立つ。既に縁がある方に対してもまだの方も変わらず、非常にシンプルだと思います。
 

温かみに可能性がある


もちろん、檀信徒の役に立つという視点は、住職継承のなかで重視されていることだと思います。しかし、地域の役に立つという視点では、地域の人との関係を確認する必要があります。

明治期に僧侶が結婚しやすくなり、住職の子は、その信心や実力とは別の理由から次の住職になりやすい状況になったと言えます。地域にとって、住職の子は知っている存在だから安心感があります。一方、各宗派も学校法人を設け、僧侶の資格取得においてルートを明確にしています。そこで単位を取得し、その後の宗派による読経等の試験に合格すれば、僧侶と認められます。そうなると、住職の子の多くは、各宗派が関わる大学等を卒業し、宗派の試験を受け、そのままお寺の世界に入ることになります。

かつてお寺の住職は、志を持って布教のために移り住んだ方々です。布教のため市民の生活を知り、どう伝えるか考え、その結果あらゆる面で深い智恵をお持ちだったと思います。

方や今のレールが敷かれた状況は、市民感覚や幅広い智恵を身につけづらいのではないかと思います。何より、地元において若い時からすでに敬われる「立場」が既にある。これは教育の世界で新卒教員の方々の苦労が多くなっている、応募数も少なくなってきているという話に近いのではないかと思います。世間の変化が大きい世の中で、基本は勉強してきた。しかし市民の教育水準が上昇し民間企業で日々働く親御さんの持つ市民感覚や社会経験との差が生まれやすい中で赴任する。これは新卒教員の方々に問題があるわけでなく、仕組みの問題が大きいのだと思います。

最近では民間企業出身の方を宗派の上層部になされた宗派もあります。ちょうどその後にコロナ禍がやってきましたが、その宗派はいち早くオンライン法要などに取り組まれていたと記憶しています。檀信徒や地域のニーズに対して、目の前の1人のお役に立つ姿勢や行動力は大切、と思わされました。

世の中がどんなに変化していっても、その時々有難い法話を届けられる住職は多くいらっしゃるでしょう。私の経験からはそのような住職の法話には、積み重ねた智恵の深みに惹きつけられる場合と、個別的で何しろ温かい場合に分かれます。特に当事者として親戚の法要に列席した場合、顕著に感じます。

行事・葬儀・法事での法話、これを目の前に座っている檀信徒あるいは遺族の立場で話してくださる住職にはやはり親近感を抱くものです。
しかし、おじいちゃんのことを知らない、世間も知らない、いつも同じ法話しか話さない住職が与えられることは限られると思います。いずれ檀信徒やご遺族とのミスマッチが生まれるのではと懸念します。

逆に言えば、若い住職が何か凄い話をする必要もなく、個別性のある温かみをしっかりと届ければ良いのだと思います。そのためにはやはり「付き合い」をどう作り、どう積み上げるかが重要になるのではないかと思います。

長くなってしまいましたが、お読みいただきありがとうございます。
次回から、少し具体的なニーズに対して触れていきたいと思います。

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