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何を見る?何が見える?

今までの生き方をバス旅行に例えるなら。

バスに乗って、紅葉が美しい山に出かけているとしよう。
窓の外に広がる、息を飲むような美しい紅葉や澄み渡る空を見ることよりも、私は山間部に捨てられている不法投棄のゴミを見て、イライラしていた。
また、同じ車内にいる人の話し声に意識を引っ張られて、批判的な感情が沸き起こることをその相手のせいにして、心が揺さぶられていた。

自分が何か努力したわけでも投資したわけでもないのに、目の前の美しい景色を見させてもらえる環境にいるのに。
バスを降りた時、美しい空気を胸いっぱいに吸って五感を通して心身共に喜びに満たされることもできるのに。
それを選択しないで、やれゴミが汚い、うるさい、寒いと文句ばかり言っていた。

実は私たちは常日頃、見たいものしか見ていない。
自分自身のこと、子どものこと、家族のこと、
どこに意識を向けて、何を感じ、それをどんなエネルギーに変えて生きるかは、ずっと自分で決めてきていた。
あまりにも無意識のうちにそれをやっていて、ずっと気づかずに来ているだけ。。。

不法投棄のゴミがなくなること、喧しい乗客がいなくなることは、理想かもしれない。
けれど、この世の中から悪が完全になくなることはなく、美しいもの、大切にしたいものの裏側には醜くて傷つけてくるものがあるのが現実。

ネガティブなもの、こと、自分を悩ます不快な感情の根底は、どうにかしたら、それらが消えてなくなる方法があるんじゃないかと思って、必死に探し求めていた。

いや、共存するしかないんだ。と
いい意味で受け入れてみる。
毒の部分、悪の部分、究極のところ原罪さえも、自身を構成する一部なんだと。

ネガティブな事柄や不快感情が沸き起こる根っこを絶やすことに必死になったり、
現実に文句を並べている暇があったら、

見たいものだけを見る選択をするほうが、手っ取り早く人生が変わる。

ネガティブな思い、自分の中の悪の部分は、なくなることはなくても、意識を向ける時間を減らし、存在を小さくしていくことはできる。
そうすると決めることも、自己選択。

さぁ、視界に映るものをどう捉えるか、どこに集中するか?
何を選んでも、選ばなくても、全ては良くなるしかないけどね。

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