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野球選手の結婚に記憶をなくした、ほんの昔話

1991年5月7日火曜日

「あのさ」
朝、クラスメイトのMが、私に話しかけてきた。
「あのさ、今日、電車の中で、おじさんが読んでた新聞に、でっかく“結婚”って、書いてあったんだけど、それって、そう?」
私が野球好きで、ヤクルトスワローズファンで、その選手が「理想の男性」であることは、入学オリエンテーションの自己紹介で話していた。

「え゛っ」
クラス中に響き渡る声が出た。しかし、驚いたのはMの方だ。まさか、熱狂的ファンの私が知らないなんて、思いもよらないことだ。

その選手は、度重なる手術で長期離脱していた。ネットも携帯もない時代、その選手の現況が入ってくる機会は皆無だった。スター選手だが、今まで女性の噂を聞いたこともなければ、写真誌に撮られたこともない。私は何も、知らなかった。

「え、違うかな?間違ってたら、ごめんね。違うかも」
ひと声吼えたあと固まっている私に、Mは慌てだす。周囲も動揺しているのが見えてはいたが、なんせ、体が動かないものだから、気の利いた返しもできない。
「大丈夫?」という声かけに答えることなく、1限目が始まった。

授業冒頭、先生から朗報がもたらされる。
「今日は、緊急の仕事が入ってしまったので、9時50分から自習とします」

50分後。Oの原付バイクを借りて駅前のコンビニまで新聞を買いに行くという、自習の時間が始まった。
Oは心配そうだ。普通自動車免許の私。原付を乗る資格はあれど、運転するのは初めてだった。乗りこなす技術があるとは思えない。事故でも起こされたら一大事だ。ただ、切羽詰まった表情で詰め寄っていたであろう私に、Oはエンジンのかけ方から教えてくれた。

「ビーン」というエンジン音に、気持ちが掻き立てられる。早く、早く。
運転にはとうとう慣れぬままだった。コンビニに横付けした原付を横目で見ながら、入口付近の新聞紙ラックに視線を走らせる。でかでかと「結婚」の文字がある新聞は、スポーツ紙1紙だけだった。
教室に戻ったあと、記事を読む自習を続けた。

その晩、高校時代の友人4人に電話をした。家の電話から順にかけ、今日のできごとを報告していく。涙は出なかった。なぐさめの言葉が続く中、電話の相手のひとり、多摩川グラウンドに通う熱狂的な讀賣巨人軍と吉村禎章ファンのAが言った。

「あゆみちゃん、スポニチ買うんだ……」


1992年7月19日日曜日

ロッテオリオンズが千葉ロッテマリーンズとなったこの年、オールスターゲーム第2戦が、本拠地移転先の千葉マリンスタジアムで開催された。
私は、三塁側内野席の最上段で観戦していた。途中、隣に座っていたお兄さんがつぶやく。

「あ、古田。サイクルヒットだ」

球場中が沸いている。グラウンドを見ると、セカンド塁上でバンザイしているヤクルトスワローズ・古田敦也がいた。

……え?古田?サイクルヒット……ん!野球場!?

急いで持ち物を確認する。チケットが、リュックの内ポケットに入っていた。オールスターゲーム第2戦。場所は、千葉マリンスタジアム。
ここが、千葉マリンか。オールスター。古田敦也。サイクルヒット。

分からない。何故自分が今ここに居るのか、分からない。試合後、父が私の席まで迎えに来た。え、親父と来てたの?

「古田、すごいじゃん」
「え、何?」
「帰るぞ」
「うん。どこ行ってた?」
「いや、あっちの席」
「なんで?」
「なんでって、チケット離れてたでしょうよ」

父は、このオールスターゲームのチケットを手に入れた。野球好きな娘を誘い、娘は「行く」と言ってついてきた。ただし、席は3塁側内野席、バラ席2枚。父は試合前、「あっちにいるから」と隣のブロックへ移動し、お互いおひとり様観戦となった。

すべて、今知ったことだ。何があった?急いで記憶をたどる。

ここは新生・千葉マリンスタジアム。ここまで何で来たか。多分父は飲むだろうから、電車だろう。何駅で降りたのか。その前に、家は何時に出た?
学校は?あ、日曜日か。えーっと、勉強……宿題は……えーっと……学校……

「新聞に“結婚”って——」あ゛!結婚!そして、

「あゆみちゃん、スポニチ買うんだ……」

……記憶はここで、途絶えている。

そう、私は、“スポニチ買うんだ”から“古田のサイクルヒット”までの、指折り数えて1年と2か月半、一切の記憶がないのだ。

帰りの電車に揺られる間、「スポニチ買うんだ」が頭の中に響く。いやたしかに、ヤクルトファンの御用達スポーツ紙と言えばサンスポだけど!そこ!?なんなら「スポニチ買うんだ」が、記憶消滅の原因のような気さえしてきた。

行きにも乗り換えたであろう駅で、ホームがぐんにゃりと曲がり、空がぐるぐる回って思わず柱にしがみついたことは、父も知らない。

ほどなくして、行ったかどうだか覚えていない学校は、夏休みに突入した。どうやら学校の勉強はしっかりしていたようで、留年も補習もなかった。
私は毎日、明治神宮野球場に通った。ヤクルト戦のある日はもちろん、ない日も、毎日だ。

夏の間、ヤクルトスワローズは1位だった。
この前年、私がヤクルトファンになって初めてAクラスになった。万年Bクラスの球団しか知らない私は、Aクラスの喜び方が分からなかった。
野村克也が監督になって、2年目でペナントフラッグを見据える位置に来た。

「もしかして、優勝できる?」

優勝できるかも。必死だった。その希望にすがりつくように、私は毎日、神宮に通い詰めた。

母には「図書館に行ってくる」と言って、家を出て行っていた。球場に入れない日は、神宮外苑をひたすら歩き、青空勉強をした。雨の日は、どうしていたのだろうか。そして、そんなおかしな子が毎日いることに、球場スタッフは気づいていただろうか。

この年、ヤクルトスワローズは、優勝した。


1996年10月9日水曜日

私は、彼の引退登板を見届けるため、明治神宮野球場にいた。前日、ラスト登板を告知するニュースを見て、仕事を調整し、早退した。

彼はもう、ヤクルトのユニフォームを着ていなかった。私は初めて、三塁側内野自由席に座り、三塁側ブルペンから歩いてくる彼を追った。寒色のユニフォームに、違和感はなかった。

今と違い、優勝の可能性がなくなった消化試合の球場はガラガラで、当日券でも余裕で入場できた。それでも、私のように急遽駆け付けたであろうヤクルトファンらしき人たちで、内野席は埋まってきていた。緑のビニール傘を持ってきている女子高生もいた。年代は違うのに、ファンなのかな。

彼の登板は、あっという間に終わってしまった。一球一球見ていたつもりが、気づけば彼はマウンドにいなかった。私は何か食べようと、コンコースへ降りた。
秋の神宮は、汁物一択。多分いつもの、水明亭のたぬきそばを慎重に運びながら階段を上ろうと顔を上げたその時、踊り場に立つ一人の女性を視界にとらえた。

彼の奥さんだった。

女優だった奥さんは、今はもうテレビで見なかった。野球選手の奥さんだから、家庭に入ったのだろう。それでも奥さんは、女優の麗しさをまとっていた。
白い横顔が、向かい側に立つ女性と話している。細いのはもちろんのこと、とにかく足が長い。
「足が立ってる」
そう思いながら、しばらく見とれてしまった。

ふと、奥さんが両手を目に当てた。その手には、ぎゅっと握ったハンカチ。泣いているように見えるが、私のところから涙は見えなかった。

「このお兄ちゃんと結婚する!」テレビの中で野球をする彼を見て結婚を決意した小学校2年生の女の子が、社会人2年目の大人になるまで、月日は流れていた。人生の半分以上、そばにいた。ずっと楽しかった。大好きだった。

でも私は、このとき気づいてしまった。彼の引退に涙するほどのことをしていないことに。繰り返された手術、投げられない日々、移籍の決断。そんな、野球選手の苦悩に、一番近くで寄り添っていた、美しい人。

彼の引退に涙を流していいのは、この人だけなんだ。

「始まってもいない恋だった」という現実を突きつけられ、私は16年越しに失恋した。


2021年4月1日木曜日

北海道日本ハムファイターズ・中島卓也選手の結婚が発表された。

ご結婚おめでとうございます。

中島は、ファイターズというイケメン集団において、「彼氏にしたい選手権」不動の1位を誇る。女性ファンの熱視線を浴びながら、ショートを守っている、イケメン中のイケメンだ。

さぁ、エイプリルフールのこの発表に、「どうかジョークでありますように」と祈りながら気を失ったままの女子たちを、どう救うか。

29年前、生ける屍と化した私を、オールスター史上初のサイクルヒットという往復ビンタで目を覚まさせた、古田敦也の役割を果たすのは、誰だ?中田翔か、西川遥輝か。あぁ、ジェームス!

そしてその年、ヤクルトスワローズは14年ぶりの優勝を果たした。日本シリーズ第1戦、杉浦享の代打サヨナラ満塁ホームランをライトスタンドで見届けた。そんな瞬間に立ち会ってしまったら、もう野球観戦はやめられない!

そうしているうちに、私はおばさんになる年まで生き長らえている。優勝は、人に生きる力をもたらすのだ。ならば、中島卓也ファンのために、

優勝するというのはどうでしょう。

北海道日本ハムファイターズの皆様


「卓のために優勝しろ」

これだ。

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