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「自分の目・他人の目」

何か行動を起こすとき、「自分の目・他人の目」は無視できない。

自分はどう思うのか。
他人はどう思うのか。
もしくは、「誰にどう思われようとも」と思うことさえ、
他人の存在を意識しているし、
「自分がよいと思う方向」を暗に意識している。

「自分の目・他人の目」というのは、
それほど区別するものではなくて、
異なる側面を映しているだけだったりする。

例えば、「相手を楽しませたい」と思う。
相手の気持ちの側に立っているから「他人の目」のようではあるけれど、
「楽しませたい」のは自分の気持ちでもあり、
自身のポリシーと照らし合わせた結果でもあるから、
「自分の目」が入っているとも言える。

この「自分の目・他人の目」は、行動の出発点となることも少なくない。
そして、「出発点」が違うだけで、向かう先はだいぶ違う。

「相手にどう思われるか?」という問いかけがある。

正直なところ、ネガティブな面もある。
「相手を不快にさせたくない」とか、
「相手に馬鹿にされるかもしれない」といった、
不安が動機になっているものもあるからだ。

でも、失礼に思われないようにするとか、
そういう「明らかなはずれ行為をしない」ためにも、
「どう思われるか」は重要ではある。

「相手にどう思われるか?」なんて、問いかけることはほとんど無い。
けれど、言動を振り返ってみると、
無意識にこの問いかけに答えていることは少なくない。
「こう行動したら、こう思われるかもしれない」と。
自分の言動が相手の気持ちと一対一対応するような、
結びつけを暗にしてしまっている
ことがある。

話は少し、脱線する。
『ジョジョの奇妙な冒険』という有名なマンガのシリーズで、
『スティール・ボール・ラン』がある。

そこに登場する、魅力的なキャラクターに、
リンゴォ・ロードアゲインという敵がいて、
多くの名ゼリフを発している。

このキャラクターのキーワードとして、
「対応者」というのがある。
相手が〇〇してきたから、自分は✕✕する。
そのような「対応者」ではない世界があると声高に主張するのが、
彼のかなり大きな魅力だ。

「相手にどう思われるか?」
「こう行動したら、相手にこう思われる。だから、こうする。」
という考え方も、かなり対応者的だと言えるのではないか。

「対応者」が悪いわけではない。
けれど、どこか主導権をつかみきれない部分がありはしないか…。

最近、この「出発点」を少し変えてみようと思うようになった。

先ほど言ったように、
「相手にどう思われるか?」という問いかけには、
自分の言動が相手の気持ちと一対一対応するような、
結びつけを暗にしてしまっている
ことが背景にある。

けれど、「自分はこうしたけれども、相手は全然気にしてない」
ということがたくさんあるのだ。
そして、自分以外のことに相手の関心が向かうことの方が多い。

よりシンプルに。
「相手にどう思われるか?」ではなく、
「相手は何を思っているのか?」
という問いかけを出発点にするのはどうだろう。

「自分の言動によって、相手の気持ちが変化する」と捉えるのではなく、
「自分の言動で、相手の気持ちが少しでもわかればよい」
というスタンス。

心の中の「自分の目・他人の目」に変化をもたらしてくれると思う。

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