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【終活】日記帳処分がクドカンサイコ〜!に変化した

昔の日記帳を捨てようとずっと思っていた。

遂に、その時が訪れようとしている。

物心ついた時から、心の内を書き溜めた日記帳。

今では中身を見るのも恥ずかしい、幼い自分がここにいる。

読み返そうか、、、パラパラとめくるが、余りにも目に余る。

その時感じたありのままの感情がそこにはあるのだが、今となってはどーでも良い感情が溢れている。

小学校も中学校も、高校もどれもたいして楽しくはなかった。

どちらかと云うと、しんどい思いの方が多かった気がする。

とにかく死ぬ前にこれらを処分しなければならない。

そんな気持ちを実行に移す時が来た。

前回のゴミじゃないから簡単に捨てられない、とはまた違った意味で名残惜しさはある。 

自分の成長が刻まれた物を捨てることは、過去との決別の様な意味がある。

しかし、この形に残った記録だけではなく、私の中にはきちんと過去が刻まれている。

毎晩、青春時代を過ごした人々が夢に出てくる始末だ。

つらつらと書き綴った感情など、何の役にも立たないのだ。

さようなら。

しかし、どうしても捨てられない日記帳があった。

それは、史上最高に幸せだった時期の日記だ。

それらは、取っておきたいと思うのだ。

過去はもう戻らない。

しんどくて辛い過去は不要なのに、幸せな過去は、手放したくはない。

幸せな思い出と共に死にたいのかもしれないなぁ。

身体の老いを感じ始めると、億劫だった身辺整理を始めようという気になる。

最近薄々感じ始めている。

そう長くは生きないだろうと。

直感の様な物は、当たる。

全く外れたとしても、そういう覚悟で生きる事は悪い事ではなかろう。

クドカンのドラマを観ながら、歳を取ると昔話をしたくなる理由に頷く。

どれも懐かしい。

懐かしいって幸せ。

幸せだったと思ってしまうのは、若かったからだろうか?

歳を取って、懐かしー!と感じるのはとても愉しい。

ワクワクするのだ。

昭和を生きた人間は昭和を懐かしーと思い、平成を生きた若者は平成を懐かしーと思い、令和を生きた我が子は、令和を懐かしーと思うのだろう。

この世から昭和の人間が居なくなったら、昭和というものが手の届かない、今の江戸時代の様な位置づけになるのだろうか。

それもまた、おかしな感覚だ。

自分の生きた時代がどんどん古びた歴史になる。

今のテクノロジーは、いずれ廃れた物になる。

そう考えると、私の存在そのものが、ちっぽけで滑稽で笑えてくる。

多くの人々に、懐かしー!の感覚を与えてくれている、クドカンはサイコー!だ。

キャッツアイに始まり、ウエストゲートパーク、ゆとりですがなにか?おれの話を聞け、あまちゃん、、、。

全て時代と共にある。

クドカンの脚本は、時代を映し出す鏡のようだ。

そのドラマを見れば、あの時代に戻れるのだ。

歳を取ると、昔を懐かしむという愉しみが増えるのだ。

驚きだ。

そんな物を抱えながら生きていくのも悪くなかろう。

日記帳の処分話が、クドカン素晴らしーに変化してしまった。

昭和に青春時代を過ごした人々には、たまらない魅力の「不適切にもほどがある」。

いつ死んでも、何が起こってもおかしくないご時世。

本当に大切なものは何なのか、考えさせられてしまう。



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