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「鬼棲む冥府の十の後宮」第十一話



 それは、一兆九千億年以上も前のこと。
 まだ前王が健在だった時代に、庭に桃の木を植えようという話になった。長子は彼のことを父のように慕っていた。子供のように懐き、下手をしたら実父よりも触れ合っているのではないかと思える程だった。
 長子と、長子の両親と、帝哀と、帝哀の両親。六人で計画を立て、後に長子が住むであろう宮殿の横の御花園を、桃の園にしようという話になった。
 幼き日の淡い思い出。長子は侍女に止められながらも勝手に一人で外へ行き、桃の木を大切に育てた。そうすれば帝哀の父がまた来た時に褒めてもらえると思った。
 その次に帝哀の父が付き合いでやってきた時、長子は彼に話しかけようとして、ある光景を見て思わず物陰に隠れてしまった。彼と彼の正妻が微笑み合い、口付けをしていたのだ。夫婦であれば何ら不思議ではない行為だ。しかしそれを見た長子はずっと心がもやもやし、気まずくなって帝哀の父に近付くことはしなくなってしまった。

 季節は巡って千年後、長子は正式に帝哀の正妻の称号を得た。その頃には長子は少女から大人の女性に成長しており、帝哀の父と話す機会もなくなっていた。しかしそれでも桃の木は大切に育てていた。木々は長子と共に立派に育った。あの頃計画していた以上の美しい光景が、御花園には広がっていた。

 帝哀の父と再会したのは、帝哀との婚姻の儀が終わった後だった。彼は珍しく桃の花園に来ていた。
 風に揺られて桃の花びらが舞う。
 きりりとした眉に、炎のように情熱的な紅の髪。昔は見上げてばかりで遠かった顔がやけに近く感じた。それは長子の身長が伸びたからだった。改めて見る相手の美しさに目を奪われたのは長子だけではない。帝哀の父も、長子の美貌に一目で惚れたらしかった。
 好きになった人にはもう何人もの妃がいて、しかも、婚約者の父親だった。
 長子は一生隠していくつもりで、彼との密会と文通を続けた。
 それが、一兆九千億年以上も前のことだ。

 ――――目を開けると、桃の花びらが舞い散っていた。
 元宵節の時期、広場は多くの花々で飾られる。桃の花も例外ではなく、うまく摘み取って飾りとされているようだった。
 長子は思う。

(まるで、あの日のようだな)

 彼と再会し、恋に落ちたあの日も、こんな風に花が降っていた。

 ゆっくりと腕を上げ、長子は緩やかに舞った。帝哀の父の目を引きたくて身につけた舞いだ。幼い頃は必死だった。あの時の感情が父親への愛情のようなものなのか恋だったのか今でも分からない。しかし、彼を好きになったのは必然だったと思う。
 長子は舞った。誰よりも努力してきた。どれだけ頑張っても心しか手に入らない人の気を引くために。〝純愛だった〟などとは、冗談でも言えない。互いに正式な相手がいながら、互いを何度も求めていたのだから。
 長子は舞った。結局彼には一度もこの舞いを見せられないままだった。今この場に、あの人がいたならどれだけ幸福だったか。

 長子は舞った。――――願わくば生まれ変わって、別の形でまたあの人と再会できますようにと願いながら。

 その時、甘い蜜の香りがした。いつになく濃い、常に桃の木の様子を見ている長子でも驚くようなきつい香りが。

 広場の向こうから、おどろおどろしい幽鬼たちが大量に飛んでくる。醜い姿をした狂鬼たちも、大きな足音を立てて向かってくる。幽鬼たちを引き連れるようにして、その中心を走っているのは――紅花だ。

(時間稼ぎは成功したか)

 長子が他の妃よりも長く舞ったのには理由がある。もしも紅花の幽鬼集めが予定よりも長く時間がかかってしまった場合の保険として、舞いの時間を長引かせたかったのだ。

(花まで操れるわけではないだろうに)

 心なしか、飾りの花まで楽しげに揺れているように見える。あの紅花という娘は、花をも味方に付けたらしい。

 ようやく大量の幽鬼の存在に気付いたのか、舞いを眺めていた観客たちから大きな悲鳴が上がる。人々は慌てふためき広場から逃げようとするが、人が多すぎて互いにぶつかるばかりで前に進めないようだった。

 そんな中、幽鬼たちを待ち構えていたように立ちはだかる一人の男がいた。――あれは、名高い元武人の魑魅斬だろう。かつてその才能を買われて前宋帝王直属の護衛として働き、周囲から酷く妬まれていた。結果的には、あらぬ罪を着せられ陥れられて、鬼殺しまで降格することになった人物である。
 彼にあったのは軍才のみで、後ろ盾も高貴な血筋もない。そんな彼が罪人として扱われておきながら後宮を追い出されなかったのは、前宋帝王の図らいである。余程彼のことを気に入っていたのだろう。結果、彼は今でも宋帝王の区域にいる。

 魑魅斬は、長子の幼い頃は他区域にまで名を馳せる程有名だった。彼ほどの武人は冥府にいないとさえ言われていた。
 そんな彼が刀を構える。その凛々しさに心を打たれたのか、端に縮こまっていた各区域の鬼殺したちが広場の中心へと走り出し、皇后たちを守るように立ちはだかる。

 騒ぎは大きくなっていき、鬼の死体の匂いが充満した。全ての妃たちが避難したが、長子だけは広場の中心のその場所に立ち止まって、冷静にその光景を眺めていた。

(本当は、本当に殺すつもりだったのだ)

 長子の愛する人を死に追いやった、憎き帝哀。帝哀の命も、他の王の命もどうでもいい。最後に自分が愛する人に会いに行けるならそれでいい。そう思っていた。

(紅花、そなたのせいだ)

 一心不乱に走り、誰よりも早く帝哀をその目で見つけ駆け寄って、襲い来る狂鬼たちに刀を振るうその姿は、泥臭くてがむしゃらで美しい。

(我と同じ、恋をする人間の力強い目。どんな手を使っても、手に入れたい者の目。我はそなたに敬意を表することにする)

 魑魅斬や十区域の鬼殺し、紅花や王専属の護衛のおかげで、一時間も立てば争いは集結した。
 つい先程まで華やかな舞いが行われていた広場は、地獄絵図と化している。
 鬼の死体から発される酷い悪臭が漂い、その匂いにやられた人々の吐瀉物が地面に広がり、逃げ惑う人間同士がぶつかって血も流れている。

「長子皇后様! お戻りください! そんなところにいては危険です!」

 護衛の者が叫んでくる。死体の匂いがきつすぎてこちらには近付けないらしい。長子はゆっくりとそちらを振り返り、凛とした声で言い放った。

「――嗚呼、計画は失敗だ」

 静かになった広場にその声はよく響き、それを聞いた者たちが目を見開く。

「十王全てを殺す計画が、失敗してしまった」

 長子は懐から重たい短刀を取り出し、ゆらりゆらりと帝哀に近付く。観客たちも、長子がまさかこんな重い武器を忍ばせて軽やかに舞っていたとは思わなかっただろう。

「憎き帝哀だけでも、殺すことにしよう」

 数千年単位で会っていなかった帝哀が目の前にいる。彼は一切動じていない。全く動かず、長子のことを紅の目で見上げている。

(……腹立たしい)

 〝彼〟と同じ目の色だ。

 大きく腕を上げ、刀を振り下ろす。

 きんっと音を立てて、その刃は他の刃とぶつかった。

 長子の刃を受け止めたのは紅花だ。この計画を共に立てた紅花と視線が交わる。長子は薄く笑った。

 長子の持つ短刀は弾き返され、くるくると回って飛んでいき、地面に刺さる。

 嗚呼――――終わった。長い長い、桃の花を見て愛しい人をただ思い出す、きらびやかで侘しい、冥府の後宮での生活が。

「――……これは一体どういうことか!」
「長子様が閻魔王様に刃を向けたぞ!」
「あってはならないことだ!」
「まさかこの幽鬼を呼び寄せたのも長子皇后様なのでは……」
「見たぞ! 皆慌てふためいているというのに、長子様だけはあの場に留まり、動じていなかった!」
「長子皇后様が十王への反逆を企てたというのか!?」
「しかし、私にはそこにいる鬼殺しの娘が幽鬼を引き連れて走ってきたようにも――」
「しかし、あの娘は閻魔王様を守っただろう!」

 騒ぎ立てる人々に対し、幽鬼と戦って傷だらけの紅花がはっきりと言う。

「――私は、たまたま外におりました。幽鬼たちが一斉に広場に向かっているのを見て、鬼が迫ってきていることを皆に知らせようと、走ってきただけです」

 実際彼女は幽鬼や狂鬼に果敢に立ち向かい、帝哀を守った。説得力はあるだろう。

 人々は静かになり、紅花の言葉に耳を傾けている。

「そしてもう一つ、長子皇后様の反逆を裏付ける証拠がございます」

 ざわっと人々が再び騒ぎ始める。
 そこへ、一体の掃除鬼が文の箱を持って走ってきた。紅花は掃除鬼からそれを受け取り、皆の前で掲げる。

「これをご覧ください。長子皇后様から、前の閻魔王様に送られた恋文です」

 はっきりと名前が書かれている上に、内容は恋文としか捉えられない、艶めかしいやり取りである。言い逃れはできない。

 誰もが衝撃を受けたように口をつぐみ、何も言わない。

「長子皇后様は、宮殿の棚にこれらを大切にしまっておりました。更に、長子皇后様は、前閻魔王が退位してから一度も現在の閻魔王である帝哀様にお会いしておりません。頑なに拒否していたと聞きます。帝哀様の正妻であるにも拘わらず、です」

 文を箱に閉まった紅花は、至って冷静に結論付けた。

「彼女は恋心を拗らせ、乱心したに違いありません」

 ■

(こんな感じでよかったかしら……)

 紅花は、柄にもなく緊張していた。長子皇后の刃を受け止めた刀を持つ指先が震えている。何せ、多くの幽鬼を集めた後に、冥府十区域のほとんど全員が集まっているような場所で発言したのだから。
 紅花はどっと疲れたというのに、目の前にいる長子皇后は澄ました顔をしている。長子皇后の持っていた刀は護衛によって回収された。不安げな人々の視線が長子皇后に集まる。

「これはさすがに……皇后の称号を剥奪すべきでは……」
「いやしかし、そのような前例は……」

 高貴な人々は前例を重視する。前例のない事柄について新たに決めるとなると――

「十王会議だ! 十王会議を行え!」

 十王を引きずり出し、会議を行うしかなくなる。

「十王様方、聞いておられますか! 早急にこの者から皇后の称号を剥奪すべきです!」
「今からでも会議場へ向かい、決まり事を変えねば……!」

 一人が言い出すとそれに乗じて皆が会議することを支持し始めた。ついさっき自分たちまで命が危ない状況だったのだから焦って当然だろう。

 人々のその様子を見た長子皇后は余裕げに笑い、肩を揺らした。
 そして、胸元から一通の文を取り出す。

「これを見よ、冥府の十王よ」

 紅花も聞いていない、予定外の発言だ。何だろうと一瞬ひやりとする。

「前閻魔王の遺言状だ。我が預かっておった」

 確かにその筆跡は、前の閻魔王から長子皇后に宛てられた手紙と同じものだ。

「そんなものを隠し持っていたなんて……」

 人々が呆気にとられたように目を見合わせる。

「内容が内容だったものでな。憎い男を楽にさせるような真似はしたくなかったのだよ」

 長子皇后は封を破り、皆の前にその書面を見せびらかした。

「〝閻魔の罰の廃止を求む〟――だとよ」

 紅花の隣に立つ帝哀が動揺したのが伝わってきた。父の帝哀を守るような遺言は、帝哀にとって意外なものだったのだろう。

「これから会議が行われるのなら、これについても議題にしてくれぬか? そちらも何度も会議を開くのは面倒だろう。十王様よ」

 遺言状に従う義務はない。しかし、王の遺言状に書かれていた事柄については、十王全員が揃って多数決を取り、可決するか話し合う必要がある。

(長子皇后様は、本当に私の願いを叶えてくれようとしている)

 紅花は驚いた。長子を信じていなかったわけではないが、長子がいくら頑張ったところで不可能だと予想していたのだ。長子も、紅花に言うことを聞かせるため、一時的にできるという風に振る舞ったのだと思っていた。
 長子は帝哀を憎んでいる。それなのに、紅花のために、何兆年も隠していたものを引っ張り出してきたのだ。
 ――本当に長子皇后を冥府から追放させていいのだろうかと、今更ながらに迷いが生じた。いや、冥府から追放するのはいい。彼女はその方が幸せだからこの道を選んだのだ。
 けれど、彼女が去った後、彼女は反逆者として、最低な皇后として人々に語り継がれていくことになる。ただ一人の男を愛し、その男に会うために計画を立てただけであるのに。
 紅花の話で笑ってくれた、あどけない少女のような長子皇后の一面を思い出す。
 今更もう引けない。けれど、誤解を解くだけなら――。

 一歩前に進もうとした紅花の腕を、帝哀が掴んで引き戻した。
 振り返ると、帝哀は険しい表情をしている。

「やめろ」
「でも……」
「お前が下手に出て疑われるのは嫌だ。それに、長子もそんなことは望んでいない」
「…………」
「お前を失いたくないんだ。俺の言うことを聞いてくれ」

 冷静に考えれば、「本当に殺すつもりはなかった」「計画に王を殺すことは入っていなかった」と言ったところで、証拠不十分だ。それを事実として受け入れられたとしても、罪が軽くなって冥府追放とまではいかなくなってしまうかもしれない。
 ――長子皇后の覚悟を、一時の迷いで蔑ろにしてはいけない。

「……止めてくれて、ありがとうございます。血迷いました」
「俺が欲しいんだろ?」
「! ……は、はい」
「なら、手段を選ぶな。誰を犠牲にしても俺を求めろ」

 その真っ直ぐな瞳に、また驚かされた。帝哀を求めることを許された気がして、その言葉が胸にじわりと浸透していく。

「――はい! 大好きです」

 紅花が大きく頷いたその時、十王会議のための王たちの収集が始まった。

「行ってくる」

 王冠を被った帝哀が会議場へと立ち去っていく。
 その後に続くのは、秦広王、初江王、宋帝王、五官王、変成王、泰山王、平等王、都市王、五道転輪王だ。錚々たる顔ぶれが帝哀の横に並んで歩き始める。

(あれが、冥府の十王……)

 全員が揃うと圧倒的な威圧感がある。
 今更ながら、一端の鬼殺しである自分と、あちら側に立っている一人である帝哀では、身分に違いがありすぎるように感じた。

(――いや)

 誰を犠牲にしても俺を求めろ――本人がそう言ったのだ。
 自分は変わらず、帝哀を奪うつもりでいればいい。

 改めて決意し、紅花は彼らの帰りを待つことにした。

 ■

 長子皇后はまるで罪人のように両手を捕縛されて連れて行かれ、王たちはいなくなり、十区域の鬼殺したちは広場に広がる鬼の死体を片付けようと奔走している。

(皆働いてるけど……私はちょっとくらい休んでもいいわよね?)

 鬼を連れてくるのにも、鬼を倒すのにも、これまでにない程体力を使った。ここで少しくらい休息を得ても許されると思いたい。
 観客席に腰をかけて一息つく。長子皇后が出してくれた茶を呑みたいところだが、きっとあれは、もう二度と呑めないのだろう。

「――今回の件、また貴女が絡んでいるのではなくって?」

 ふと、鈴のように耳障りの良い、楽しげな声がした。

 顔を上げると、美しい姿をした天愛皇后が立っている。あんなことがあった後だというのに一人だ。一目を盗んでこっそり紅花の元へ来たのだろう。

「さぁ、何のことだかさっぱり」
「あれだけの数の幽鬼や狂鬼を連れて来るだなんて、長子皇后の力でできるとは思えないのだけど? まぁ、貴女が鬼の心を読めることについては知らないふりをしておいてあげるけれど」

 紅花のことを見透かすように目を細めた天愛皇后は、くすくすと華やかに笑った。遠くから見てもあれだけ美しかった彼女は、近くに来るとよりその容姿端麗さが際立つ。思わずまじまじと見つめてしまった。

「わたくしに見惚れているの?」
「……はい。今日は一段と……何というか、凄いですね」
「ふふふ。褒めるのが下手ねえ。綺麗だとか言えないの?」
「お綺麗ですよ。少なくとも今日見た皇后様たちの中で、天愛皇后様が一番綺麗でした」

 世辞でなく本音だ。他がどう評価するかは知らないが、紅花にとっては、天愛皇后が一番美人だった。
 すると、天愛皇后の顔がぱぁっと明るくなり、紅花の肩に手を回したかと思えば、必要以上にくっついてくる。

「やぁーだ! もぉ~そんなこと言ってくれるの? 嬉しいわ。貴女、本当に食ってやろうかしら」
「……勘弁してください……」

 あの侍女たちのように骨抜きにされるのは御免だ。
 くすくすと機嫌良さそうに笑っていた天愛皇后は、ふと笑うのを止め、ぽつりと呟く。

「長子皇后、幸せそうな顔をしていた。今回は勝つつもりで本気を出したのに――わたくしには、彼女のあの表情の方が美しく見えたわ」
「……そうでしょうか」
「あれが、全てを捨てて自分の道を歩むことを決めた女性の美しさなのでしょうね。……わたくしには、捨てられなかった」

 空を見上げながら悲しそうに言う彼女の横顔を見つめる。

「最初に出会った頃、わたくしが父親に利用されていたと言い当てたでしょう」
「あの時は、花が言っていたことをそのまま伝えただけです。私の能力を信じてもらえるように。詳しくは知りません」
「わたくし、奴隷の一族の中で、王に気に入られるために女として教育されてきたのよ。生まれながらの美貌があったからね。わたくしが王に気に入られれば一家が栄える。笑顔の作り方も、男に媚びる声の出し方も、相手の求めているものを探って的確に与えてやるやり方も、夜伽の手法も――全て、色んな男を相手にしながら、幼い頃から叩き込まれてきた。わたくしの父もそれを望んでいたわ」

 紅花は初めて天愛皇后に同情してしまった。見知らぬ男に身体を触られる怖さ、辛さ、屈辱は、生前の紅花も知っている。
 天愛皇后は、生まれながらにして身近な人に一家の繁栄のため利用され、計画通りこの後宮に入り、それからずっとこの狭い世界に閉じ込められている。

「そんな顔しないで。わたくし、この生活も悪くはないと思っているのよ?」
「……実は飛龍様のこと、そんなに好きじゃなかったりします?」
「愛しているわ」

 予想外にも即答された。

「最初は確かに、王という立場を見て近付いたけれど。今はあの人の優しさや愛情、大切にしてくれるところ、意外と照れ屋なところ……全部好きよ」

 天愛皇后は愛しそうに微笑む。
 紅花は今日、天愛皇后のために怒っていた飛龍の顔を思い出した。彼なりに、妻にした人間は全員、とても大切にしているのを知っている。

「なら、それも違った形の幸せなのではないですか?」

 きっと天愛皇后も気付いているのであろう指摘をすると、天愛皇后は力強く肯定した。

「そうね。そうかもしれないわね」
「……惚気を聞かされた気分なんですが?」
「なら、貴女の惚気も聞いてあげましょうか? 最近、貴女も閻魔王様といい感じなんじゃない?」
「…………やっぱり、そう見えます?」
「ふふ、嬉しそう。でも本当に思ってるわ。閻魔王様があんなに人を自分の傍に近付けることは珍しいもの。今日だって、幽鬼のことは貴女に任せていたでしょう。それって信頼されてる証じゃないかしら?」
「……私、期待してもいいと思いますか?」

 天愛皇后に言ってもらえたら自信を持てるかもしれない。そう思ってちらりと期待の眼差しを向けるが、天愛皇后の返しは意地悪だった。

「さぁ。それは、閻魔王様ご本人に聞いた方がいいんじゃない?」
「……面白がってますね?」
「うふふ。わたくし、楽しくって仕方がないのよ。あの堅物の閻魔王様が、わたくしのお気に入りの女の子とくっつくかも……なんて、冥府にここ数億年はなかった面白展開だわ」
「やっぱり面白がってる!」

 紅花の悲痛な叫びを、天愛皇后はくすくすと愉しげに笑いながら聞いていた。

 ■

 元宵節の宴が中止され、人々が店仕舞いをしている横を歩く。提灯も降ろされ、後宮はいつもの光景に戻ろうとしている。非日常感が徐々に薄れていくのを感じながら歩いていると、色とりどりの牡丹の花が咲き誇っている御花園に辿り着いた。

『よかったネ』
『くすくす』

 花たちが楽しげに笑っている。

「……ありがとう。手を貸してくれて」

 花たちには独自の連絡網があり、それぞれに繋がっているらしい。花同士では、風に乗って声を届けるという。
 彼女たちが手を貸してくれなければ、あれだけの数の幽鬼や狂鬼を集めることは難しかっただろう。

『アナタ見ていて 飽きない』
『後宮でのツマラナイ生活 あなたがいると 彩られるノ』
『また 楽しませてネ』

 花はお喋りと面白いことが大好きだ。どうやら紅花は、気に入られているらしい。

「努力するわ」

 苦笑いして答える。その時、風が吹いた。何となく良い予感がして振り向く。
 予想通り帝哀が立っている。
 十王会議が終わったら真っ先に来てくれるのではないかと期待していたので、本当にそうなって少し嬉しい。

「……お帰りなさい。帝哀」
「ただいま」

 帝哀は紅花の頬に触れた。

「怪我は治ったのか」
「はい。冥府の薬を呑んだらすぐ治りました。掠り傷でしたし」

 帝哀を守るために紅花が負った傷を心配してくれているらしい。頬に付いた傷は掠った程度であるし、強いて言うなら少し腕の骨が折れたくらいで、他は大したことはないのだが。

「それより、会議はどうなったのですか?」
「――どちらの議題も、十王の全会一致で可決された。飛龍は本当に口がうまいな。王より詐欺師の方が向いているくらいだ」
「ええ……本当に全会一致だったんですか」

 ということは、長子は死刑。帝哀の今後の罰は、廃止されるということだ。

「良かったですね」

 心から思う。人に罰を与えた責任として罰を受け、それでぼろぼろになっている帝哀の姿はもう見たくない。

「……いいのか?」
「いいとは?」
「お前は、罰を受けている俺の姿を見て俺に惚れたんだろ。それがなくなったら、俺のことが嫌いになってしまうのではないか?」
「ええ!? そんなわけないじゃないですか! 確かにきっかけはそれでしたけど、私は帝哀の全部が好きです! 一部がなくなったくらいで嫌いになりません」

 そう否定した時、ふと不安になることを思い出した。

「……帝哀こそ、私のことを嫌いになったのではありませんか?」
「は? 何故?」
「私は嘘をつきました」
「いつの話だ?」
「長子皇后様の計画の手助けをする上で、嘘は不可欠だったのです……」

 皆に長子皇后を疑わせるために、堂々と嘘を吐いた。紅花はたまたま外にいたのではなく、幽鬼たちを連れてきた張本人であるというのに。

「嘘もたまには必要だろう」

 しかし、帝哀は予想外の返しをしてきた。

「俺は人間の、嘘を吐くところが嫌いだった。しかし、人の願いを叶えるために吐く嘘もあるのだな」

 ゆっくりと帝哀の顔が近付いてきて、紅花の唇に、帝哀の唇が重なる。

「紅花。お前が愛しい」

 触れるばかりで離れていった唇は、ほんの少しだけ離れた距離で囁く。

「………………嘘……」
「俺は嘘を吐かない」
「私が、愛しいと、そうおっしゃいましたか? 聞き間違いじゃないですよね?」
「聞き間違いじゃない。お前が好きだと言った。お前に俺の正妻になってほしい」
「せ、せいさい!?」
「最初は周りを納得させるのが大変だろうが、いずれは皇后の称号も、お前に与えたい」

 もう、口をぱくぱくさせることしかできない。
 確かに宋帝王である飛龍が奴隷を皇后にした前例はある。しかし、一介の鬼殺しである自分があの閻魔王に求婚されている実感が湧かない。

「どうした? ずっと狙っていたんだろう」
「はい……。一兆六千億年以上、貴方のことが好きでした。狙ってました。奪いたくて奪いたくて仕方ありませんでした」
「なら、もっと素直に喜べ。その俺がお前を選んだんだ」

 嬉しい。嬉しい。嬉しい。気が狂いそうなくらい嬉しい。
 地獄を卒業した後、無理を言って冥府に残してもらったのは、今目の前にいる帝哀に会うためだったのだから。

 風が吹いた。後ろに咲き誇る赤い牡丹と、帝哀が重なる。
 その時確信した。帝哀には牡丹の花が似合うと。

「帝哀、我が儘を言ってもいいですか」

 帝哀を見上げて申し出た。

「私も、帝哀の宮殿の横に、御花園を造りたいです」

 あの養心殿の隣に牡丹があれば、それはとてもあの宮殿を美しく見せると思うのだ。
 こう見えて、短期間だが庭師をしていた身である。計画から庭造りまで携われる自信はある。
 帝哀は意外そうに聞いてくる。

「我が儘と言うから何かと思えば。そんなことでいいのか?」
「はい」
「何故御花園なんだ?」
「長子様だけ帝哀と一緒に庭を造った経験がおありなのは、狡くないですか?」

 少し唇を尖らせながらそう言えば、帝哀は数秒きょとんとした後、高らかに笑った。これまで見てきた中で一番大きな笑顔だった。

「何だ、嫉妬か」
「当たり前です。幼い頃家族ぐるみで仲が良かったというのも嫉妬材料です。どうして長子様は帝哀様の幼い頃を知っていて、私は知らないのですか。怒り狂って長子様のことを殺してしまいそうでした」
「お前は可愛いな」
「恋敵を殺してしまいそうなんて言う女のことを可愛いと言うのは、貴方くらいですよ」
「そうだな。俺は存外お前に骨抜きにされているらしい」

 帝哀が紅花の手を取る。

「これからもずっと、俺のために狂っていてくれ。何兆年でも」




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