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「人魚隠しし灯篭流し」第二話

【第一話はこちら】



「……じょうぶ……でしょうか……違うのに……」
「……おそらく……決まるので……形は関係ありません……」
「よかった…………わたくしの血では駄目かと……」

 人の話し声がする。
 う、と短く呻き、目を開く。見知らぬ天井がそこにある。
 呆然とする千代子を覗き込んだのは、艷やかな長い黒髪を一つに纏めた、紅の着物を着た少女だった。赤っぽい、異人のような変わった色の瞳と桃色の口紅が真っ白な肌によく映えている。見たところ、千代子と同年代くらいだ。

「起きたのね。よかった。浜辺の岩にぶつかって大量に血を流していて、一時は大変だったのよ。幸い、島の医者に診てもらって何とかなったけど」

 少女はほっとしたように微笑んだ。

「わたくしは珊瑚《さんご》。この屋敷の次女よ。ここは、〝銀鱗島《ぎんりんじま》〟というの。分かる?」
「ぎんりんじま……」
「貴女、今朝方浜辺で発見されたのだけれど、一体どこから来たの?」

 霧海村から銀鱗島まではそれほど短い距離ではなかったはずだ。しかし、幸か不幸か、千代子は生き残ってしまったらしい。
 上体を起こし、自分のいる広い畳の間を見回す。部屋には立派な掛け軸や絵画、置き物がずらりと並んでいる。一目で財を持つ物の家だと分かった。

「……栃木から……」

 千代子がぼそりと答えると、珊瑚は首を傾げる。

「やだ、わたくしの分からない地名だわ。それってここから遠いの?」
「関東です」
「かんとう? かんとうって、何? どの辺りかしら」

 なかなか話が通じず、千代子は説明するのが面倒になり黙り込んだ。長く喋る気力がない。
 どうして死ねなかったのだろう。神様というものがいるのだとしたら意地悪だ。少し油断しただけでも、茂とのおぞましい行為の記憶が蘇る。何度も何度も。

「船の行き来はもうなくなってしまっているの。貴女を戻してあげたいけれど、しばらくは……」

 ――珊瑚は千代子を栃木に戻そうとしている。それを察した時、千代子は思わず立ち上がった。千代子と目線を合わせるため屈んでいた珊瑚が驚いたように千代子を見上げる。

「自分で帰れます。放っておいてください」

 栃木にだけは戻りたくない。今頃茂は千代子が勝手にいなくなったことで激怒しているだろう。そして、それを知った母も。

「え? 自分でって……ちょ、待って、駄目よ」

 珊瑚の制止も無視して廊下に通ずる襖を開けようとした千代子は、徐々に気持ち悪くなってきて床に倒れた。

「まだ動いちゃいけないわ。傷が開いてしまう」
「……うう……」
「痛い? 痛いのね? ちょっと待って」

 腹部を押さえて歯を噛みしめる千代子に寄り添うように近付いた珊瑚は、千代子の腹を千代子の手の上から優しく擦った。すると不思議なことに、次第に痛みが引いていく。吐き気もなくなっていった。
 驚いて珊瑚を見上げると、珊瑚はふふっと得意げに微笑む。

「凄いでしょう。これ、わたくし達人魚族の力なの」
「人魚族……?」
「一応、この島で祀られている神様よ」

 千代子は一瞬言われたことを飲み込めず、珊瑚のつぶらな瞳をじっと見つめ返してしまった。一拍遅れて何とか質問を絞り出す。

「……え……霧海村が祀っていたっていう……?」
「あら、知ってたの」

 くすくすと着物の裾で口元を隠しながら笑う珊瑚は、確かに人間離れした美貌を持っている。透き通るような白い肌や整った目鼻立ちを見ていると、人ではないと言われても納得するほどだ。

「……本当に? 人魚なんてお伽噺でしか聞いたことない。陸で生きられるの? 見た目は人間なのに神様なの?」

 千代子はずいっと珊瑚の顔に顔を近付けて聞いた。
 目の前にいるのは、人ならざるものだ。好奇心から少しだけわくわくしてしまう。
 すると、珊瑚は少し意外そうに瞠目した後、ふふっとまた笑った。

「神様だから人の姿にも別の姿にもなれるのよ。今度見せてあげてもいいわ」
「ええ! 凄い……って、あ、すみません、敬語なくなってました」
「敬語なんていらないわ。気楽に接して頂戴」

 少し躊躇いはあったが、珊瑚は見た目からして同年代だ。この島に流れ着き、こんなに可愛い子と出会えたのも何かの縁かもしれない。
 少しだけ気持ちが落ち着いてきた千代子は珊瑚に微笑みを返す。


「よそ者。何をしにきた」

 その時、嗄れ声がした。振り向くと、いつの間にか部屋の隅に老婆が立っている。千代子はその姿を見てひゅっと息を吸った。
 ――全身が鱗だらけだ。その姿はとても綺麗であるとは言えない、異様な見た目である。老婆の鋭い視線と相まって、不気味さ、おぞましさすら感じる。

「お婆様……。動いてよろしいのですか?」

 珊瑚が心配そうに老婆に駆け寄った。どうやらあの老婆は珊瑚の祖母らしい。
 老婆は珊瑚など見えていないかのように千代子を視界に捉えたまま顔を動かさない。そして。

「この屋敷から出ていけ……よそ者、この屋敷から出ていけ!!」

 金切り声を上げながら傍にあった壺を持ち、千代子にぶつけようとする。千代子は驚いて立ち上がった。

「お婆様、ごめんなさい! わたくしが連れてきてしまったの! すぐ外へ出すから、お願い、落ち着いて!」

 珊瑚が壺を持った老婆を必死に押さえ、目線で千代子に逃げろと指示してくる。千代子は慌てて襖を開けて廊下に出た。隠れるように廊下の曲がり角まで移動して蹲る。後ろからはしばらく口論の声が聞こえていたが、徐々に収まっていった。

 息を潜めて待っていると、そのうち珊瑚が迎えに来た。
 珊瑚は非常に申し訳なさそうな顔をしている。その手には二足の下駄があった。赤い鼻緒に花柄の入った、可愛らしい下駄だ。

「ごめんなさいね。お婆様はご病気で……。さっきみたいに取り乱すことも多いの。本来はお優しい方なのよ」
「病気っていうのは……あの肌のこと?」
「そう、意思とは関係なく肌に無数の鱗が出るの。この島の流行り病でね、一度かかったら治らないのよ。どうやって感染するのかも分かっていないから、一度なると隔離されるようになってしまって……お婆様、普段は屋敷の奥の離れに独りでいるの。そんな状態だから精神的に滅入るのでしょうね」

 珊瑚はそう言いながら千代子を外に案内した。一度屋敷の外に出るらしい。

「お婆様が眠りにつくまで、しばらく離れていましょう。大丈夫、一度眠ると数日は起きないから。起きた時には貴女のことも忘れているわ」

 珊瑚に促されるまま下駄を履き、石畳の長い道の上を歩く。その先には屋根付きの大きな門があった。珊瑚が錠を外して門を開ける。
 外には原風景が広がっていた。見えるのは小さな山と草木と田んぼくらいだ。電灯や電線すらない。
 遠くには、ぽつんぽつんと間隔を開けて、古びた小さな家屋が並んでいる。そのほとんどが草木に埋もれ、今にも壊れそうな見た目をしている。
 それらの家々を見てから高い塀で囲まれた珊瑚の屋敷を振り返ると、珊瑚の屋敷の方がより広く、改めて立派に見えた。

 島の住人らしき男が珊瑚の屋敷の隣にある祠の近くに米を置き、手を合わせている。「人魚様……嗚呼、人魚様」と暑い中何やらぶつぶつ呟いているのが不気味だ。
 千代子はその様子が少し気になったが、珊瑚がさっさと先に行くので、早足で付いていった。

「銀鱗島には人がいないって聞いてたのに、普通に住んでてびっくりした」
「昔は少なかったけれど、今はどんどん増えているわよ。わたくし達が来てから作物がよく育つの」
「……神様だから?」
「そうみたいね」

 珊瑚はふふっと笑った。
 珊瑚と一緒にしばらく歩いていると、小規模な市場があった。子供から大人までが集まり、並べられた魚や野菜を見定めている。味噌や醤油、塩などの料理に必要な調味料も売られていた。
 薄い布の服を着た島民は珊瑚の姿を見るなり姿勢を低くする。珊瑚がこの島で敬われているのが分かる反応だ。そればかりか、珊瑚が手を伸ばすだけで市の人間はさっと素早く塩や醤油を差し出す。
 お金も出していないのにいいのだろうか、と千代子は少し心配になった。しかし珊瑚は人の姿をしている神様であると聞くし、神様が人に金銭を支払うというのも変な話だろう。
 千代子が「持とうか?」と聞くと、「あら、いいの」と珊瑚は遠慮なく買ったものを入れた袋を千代子に渡してきた。

 珊瑚はしばらく市場で食べ物や衣類をもらっていたが、その途中で千代子を振り返って聞いてきた。

「貴女、欲しいものはないの」

 そういえば、長い時間食事をしていないはずであるのに腹が減っていない。市場で売られているものを見ても興味をそそられなかった。
 不思議に思いつつ首を横に振ると、珊瑚が「物欲がないのねえ」と呆れたような声を出す。そして、今度はふと思い出したように懐から組み紐を出してきた。
 その紐には見覚えがある。栃木で両親からもらった、霧海村の伝統工芸品だ。てっきり海の水に流されてしまったものと思っていた。

「これ、浜に倒れていた時、貴女の髪の毛に絡まってたわ」
「あ……ありがとう」
「可愛らしい紐ね」
「うん。親からもらって……」

 一瞬、別荘で最後に見た母の顔を思い出して手が止まった。同時に茂を連想してしまい、ずきりと胸が痛む。
 千代子は思考をかき消すように髪の毛を一つに纏め、組み紐で結んだ。
 珊瑚が少し悲しそうに眉を下げる。

「そうよね、貴女にもご両親がいるのだものね。早く帰してあげないとね」
「……あの、珊瑚さん」
「なあに?」
「私、栃木には帰りたくなくて……」

 小さな声で訴えると、珊瑚は目をぱちくりさせた。

「本当? 正直、帰りたいと言われても帰す手段がなくて困っていたところよ」
「そ、そうだよね。船も通ってないんだし……」
「まあ、でも、そういうことならこの島でゆっくりしていくといいわ。うちのお屋敷、無駄に広いでしょ。部屋ならいくらでも余っているの」
「……本当にいいの? 神様の棲むお屋敷なのに……」
「島の人間が勝手に神だと崇めているだけで、わたくし自身は神として扱われたくはないと思っているわ。だから、貴女のその軽い態度、気に入っているのよ。どうか遠慮しないで」

 珊瑚が優しく微笑む。
 その笑顔があまりに美しく、千代子は少しどきりとして視線を逸らす。
 そして、珊瑚の背後、市の向こうに、妙な物があるのに気付いた。

 ――今にも死にそうな痩せ細った女性達が、見世物のように牢に閉じ込められている。
 彼女たちは虚ろな目をして、「あー」だの「うー」だの言葉にならない声を上げている。髪の毛はガサガサで、肌は汚れていて、糞便も垂れ流し。その周囲には大量の虫が飛び交っていた。

「あ……あれは何?」

 初めて見る光景に動揺し、震える声で珊瑚に問う。珊瑚は後ろを振り向き、「ああ」と何でもないように答えた。

「島の掟を破った者たちよ」
「島の……掟?」
「殺生や偸盗、邪淫や妄語、飲酒ね。島の外でも禁止されているでしょう? 特に、邪淫はこの島では大罪なの。あの女達は邪淫の罪を背負っているから、あんな姿にされてしまったのよ」

 邪淫、という聞き慣れない単語を出されて戸惑っていると、珊瑚が加えて説明する。

「この島は、生まれながらにして正しい相手が決まっているのよ。決まった異性以外との性交渉は許されていないし、清らかな乙女しかこの島に足を踏み入れてはいけないの」

 その意味を理解し、はっと黙り込んだ。
 茂との情事が思い出されて血の気が引いていく。
 千代子の顔がすっかり青くなっていたのか、珊瑚が何か察したように一歩近付く。

「――経験があるのね?」

 珊瑚が低く、囁き声で問うてくる。その表情は酷く険しい。鬼のような顔だった。

「島では隠し通しなさい。殺されてしまうわ」
「……殺されるって、そんな、大袈裟な」
「この島で女の価値は純潔さと美しさで決まる。特に純潔は大切なものよ。どれだけ美しくても、土台に純潔がなければ意味がない」

 自分の価値を否定されたようで、千代子は少し傷付いた。
 綺麗な身体を、捨てたくて捨てたわけじゃないのに――と。

「これ以上この話をするのはやめましょう。島内での会話は誰に聞かれているか分からないもの」

 珊瑚が早々に話を切り上げ、再び歩き出す。

「お相手は、好いた男?」

 前を歩きながら問われた。

「…………いえ」

 返事を絞り出すのに精一杯だった。

 すると、珊瑚がぐるりと勢いよく千代子の方を振り返る。
 その顔は花が咲いたように明るい。

「まあ、よかった! 好いた男と結ばれた女が存在するなんて、嫉妬で壊れてしまいそうだもの!」

 その何よりも可愛らしい顔とは裏腹に、発言の内容は歪んでいるように思える。
 困惑する千代子の手を珊瑚が嬉しそうに握った。まるではしゃぐ子供のように。

「じゃあ、わたくし達、仲間ね」
「……え?」
「好きでもない男に利用されたんでしょう。わたくしも同じよ。好きでもない男と結婚して、子を産まされた。一族の繁栄のために」

 自分と同い年くらいであろう見た目の珊瑚が子持ちということに驚き、声を上げる。

「えっ。珊瑚、子供がいるの?」
「いるわ。十九人」
「じゅっ……十九人!?」
「下はまだ零歳の赤ちゃんで、上は六十歳」

 人魚というのは多産らしい。改めて珊瑚が人間とは異なる種族であることを実感しつつ、六十歳の子供がいるという珊瑚は一体何歳なのだろうという疑問も生まれた。勝手に同い年くらいに感じて親近感を覚えていたが全然違ったようだ。

 その時、珊瑚がぴくりと何かを察知したように顔を上げ、遠く離れた屋敷の方を見る。

「……ごめんなさい、一旦帰ってもいい? すぐ戻ってくるから。島の市は珍しいでしょうから、好きなものを見ていていいわよ」
「う、うん。どうしたの?」
「子供が泣いているの。寝かしつけてくるわね。粉ミルクも作らないと……」

 千代子には何も聞こえなかったので不思議だった。人魚にしか聞こえない声というものがあるのだろうか。
 分かったと承知して珊瑚を見送る。珊瑚は小走りで市を離れようとして、ふと思い出したようにこちらを振り返り、数歩戻ってくる。

「ああ、そう。言い忘れていた。あの橋の向こうには行かないようにね。どこを見ていてもいいけれど、この市場の近くからは離れないで」

 それだけ言って再び屋敷の方へと走り出す珊瑚の背中をぼんやりと見つめる。
 橋などあっただろうか、と後ろを振り向けば、確かに遠くに真っ赤な橋が見えた。緑広がる一面の中の赤い橋は妙な存在感を放っている。
 千代子は珊瑚に言われた通り市を回ってみようかとも思ったが、何故か食欲が消えているのでその気が起きず、ひとまず近くを流れる川沿いを歩いてみることにした。

 川のせせらぎと鳥のさえずり。美しい自然が広がっているこの島は、茂の別荘よりも居心地が良い。水の音に耳を傾けながら歩き続けていると、少し離れた場所で複数人の子供の声がした。

「やーい、忌み子!」
「母ちゃんが言ってたぞ! 海雲《うみぐも》族はこの島の恥晒しだって!」
「悔しかったら抵抗してみろよぉ~! ほーら! ほーら!」

 珊瑚に行くなと言われた赤い橋の上、子供達が一人の少年をいじめている。それも言葉で罵るだけでなく、何度も殴ったり蹴ったりを繰り返しているのが見えて、千代子は思わずそちらに走っていった。

「こらっ! やめなさい!」

 大声で注意すると、子供達がびくっと体を震わせて千代子の方を見る。
 しばらく千代子を凝視していた彼らは、こそこそと互いに何かを話し始めた。

「こいつ聞いたことあるぞ。昨日来たよそ者だって」
「神様のお屋敷に連れて行かれたとこ見た人がいるって……」
「じゃあ……神様のお客様?」

 子供達が急に青ざめ、口々に「ごめんなさい」と謝罪して走り去っていく。彼らは少年を叩くために使っていた木の棒も放り投げていった。

 千代子は子供達が行ってしまうのを見届けてから、さっきまで激しく叩かれていた少年に視線を移す。橋の真ん中で蹲ったままの彼と視線を合わせるため屈み、優しく声をかける。

「大丈夫だった?」

 千代子の声を聞いた少年がゆっくりと顔を上げた。
 ――酷く綺麗な顔だった。吸い込まれるような大きな瞳と、通った鼻筋と、異性に好まれそうなきりっとした眉。
 年は千代子と同じくらいか少し上に見える。さっき走り去っていった子供達よりも大きな男の子だ。遠目に見てもっと小さな子だと思っていたので驚いた。

 しばらく見つめ合っている間に、二人の間に強い風が吹いた。
 少年に見惚れていた千代子はハッとし、珊瑚から預かっている袋の中から、さっき珊瑚が市場でもらっていたみかんを少年に差し出す。みかんはいくつかもらっていたので、一個くらいなくなっても構わないだろう。

「痛かったよね。これ食べて元気出して」

 少年が瞠目する。千代子の行動が意外なものだったらしい。

 少年は無言で千代子の手元を見ていた。そして、みかんを受け取って立ち上がる。
 無地で鈍色の地味な着物も、少年が着ていると立派なものに見える。

「早くこの島から出た方がいい」


 それが唯一、少年が発した言葉だった。

 少年が千代子に背を向け、橋の向こうへと歩いていく。

 強い風が吹いて目を瞑る。
 次に目を開ける時には、少年はいなくなっていた。


【次話】


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