215-216 毛筆、硬筆、詩、言葉の世界を味わい尽くす

215. 深夜のセッションを前に

上空に雲が広がり、白練(しろねり)の空をつくっている。さらにその下に動く雲は灰青(はいあお)。雲が薄いところもあり、大きなまだら模様が南へと動いていく。

昨日は夕方ランニングをし、ベッドに入って眠気が強くなったところで本を閉じたものの、すぐには寝付かなかった。夕方参加したオンラインゼミナール以降、パソコンを使った時間も長かったし脳が活性化していたのかもしれない。運動や食などの条件は良かったように思うが、やはり人間はそう簡単に入力と出力が決まるわけではないようだ。寝室の薄いカーテンを引いた窓の上の、カーテンのかかっていないガラスの部分から、空が暗くなっていることが分かり、22時半をすぎているだろうと予想した。ちょうど寝る前に、「日本の時間の朝のセッションを活用して生活のリズムを整えるには」ということを考えていた。

現在、週末のみ日本の朝8時からのセッションを行なっているが、そのときオランダは25時。夕方一度仮眠を取り、体力と思考力も残しており、こちらが暗い中で視覚的刺激も少ないので身体の中に余白を持った状態でいられているのではと思う。しかしその後頭が冴えすぎてしまい、こちらの時間の3時もしくは4時頃まで寝付くことができなくなる。その結果翌日は10頃まで寝ていることになる。特に天気が良い日だと、すっかり日が昇るころまで寝ている感覚というのはどうも具合が悪い。「忙しい平日の夜には思考が切り替わらないので土日の朝に静かに自分のための時間を持ちたい」という気持ちや状況には強く共感するし、そんな中で何かを変革しようとしている人や、どんな状況でも自分と向き合う時間を持とうという人とご一緒するのは私の喜びでもある。ここに生活のリズムを崩さないという条件を加えられたら体としても精神的にさらにバランスが良くなるだろう。

そんなわけで昨晩は、「今よりももっと早く寝て早く起きる」という方法を思いついた。睡眠の長さは脇に置いて、18時に寝て23時に起きれば25時には調子を整えられているはずだ。早速「明日からこれをやってみよう!」と思って、張り切って眠りにつこうとした。張り切っている時点で眠れないはずである。そして今思えば、やはりこの設定には無理がある。18時といえばこの時期のオランダは昼間のように明るいし、中庭がバーベキューの賑わいで包まれることもある。何より、18時は日本の25時であって、日本で暮らす夜型の人とあまり変わらない時間帯で暮らすということになる。ヨーロッパで暮らす良さは日本の人の活動時間との「ずれ」があることであって、外部とのやりとりを全くせずにやりたいことに没頭できるというのが暮らしとしても仕事としてもいい状態を作ることにつながっているのだ。

考えてみると今のところ深夜のセッションの後のネックと言えば、翌朝部屋が暑くなって十分に眠りが取れた感じがしないことと、すっかり明るくなる中で寝続けることに「もったいないかなあ」という気持ちを感じることくらいだ。とりあえずは寝室の窓についているいつもは使っていない少し厚めのカーテンを引いて寝ることが解決策になるだろうか。例えばこれが米国の西海岸に行くと、サマータイムの間は日本から-16時間の時差があることになるので、日本の朝8時は現地の16時とちょうどいいが、日本の16時から23時くらいの間、現在主にミーティングやセッションを組んでいる時間帯は現地の夜中になるということになる。やはりこうして考えると、現在の「午前中からお昼過ぎまでを日本にいる人と関わる時間に使い、夕方以降は外とはやりとりをしない時間にする」というライフスタイルはちょうどいいバランスだ。日本時間の朝のセッションも前日と翌日の過ごし方と心の持ちようの話なのでもう少し整えることができるだろう。

いつもながら、日記を書くというのは不思議な行為だ。予め「これは日記に書こう」と思ったことを書くこともあるが、自分自身でも予定も予想もしていなかったことが綴られていくことも多い。人との対話とはまた違った、静かに、よりフラットに、物事と心を見つめていけるように思うし、文字に残すと後から読み直して「こんなことを考えていたのか」という新たな学びのきっかけが生まれる。だからこそ、自分の中にその瞬間に生まれるものを正直に置いていきたいとも思う。ここで仮に忖度をするようなことがあれば、自分自身の深いところにあるものとは出会えないままになってしまうだろう。ああだともこうだとも取れることに対して、少しでも自分なりの結論を出していきたいと考えるようになった自分がいる。2019.7.13 Sat 7:34 Den Haag

216. 毛筆、硬筆、詩、言葉の世界を味わい尽くす

先ほど食事を終え、パソコンを持って書斎の机にやってきた。一昨日、昨日ならもうベッドに入っていた時間だ。しかし今日は深夜のセッションがあるということで、無意識に「夜の時間が長くある」というモードになっていたのか、やっていたことがのびのびになってしまった感じだ。しかし、いつもなら時間に限りがあることを思いっきりやれたという実感もある。17時前に小雨が降り外の気温が下がっていることを感じ、今日はジョギングに出ることも断念した。本当のところは目の前の作業を続けたかった。

午前中、先日ロンドンの書店で手に入れたティク・ナット・ハンの『SILENCE』という本を読んでいた。マインドフルネスに関する内容の一つだが、silenceを阻害する要素の話がまさに今学んでいるインテグラル理論で扱われている4象限の話にも通ずるところがあり、思わず先へ先へと引っ張られるように読み進めた。と言っても英語の本なので普段の日本語の本の読書のような速さで読み進めることはできない。比較的易しい英語で書かれているが、意味が分からない単語もたくさん出てくる。だからこそ、一つ一つの言葉やセンテンスの意味を噛みしめるように読んでいった。

そういえば、その前には硬筆に取り組んだのだった。(毛筆で書いているものについては「書」と呼んでいるが、それとはまた違う感覚なのでさしあたり「硬筆」と呼ぶことにする)数時間後にセッションがあり、余力を残しておきたかったこともあり、筆を使う書ではなく、もう少し気軽にできる硬筆を選んだ。日本から送ってもらっている習字の硬筆のお手本を開くと、季節に合わせたいくつもの文章と出会うことができる。それぞれ日本の作家が書いたものや中国の古典の中からとられたものだが、その内容がとても味わい深い。そう思ってお手本を見ながらふと、「小さい頃習字を習っていたときには硬筆で書く文章の内容など気にしていなかった」かもしれないと思った。これは毛筆についても言える。私にとって習字は「字を綺麗に書くこと」を学ぶ場であり、それは文字をあくまで形として捉えたものであって、その文字の意味するところまで考えていなかったのだ。目に見える造形から、目に見えない意味へ。これはまさに、「文字」というものに対する認知の変化が起きたことを表しているのだろう。

現在の認知では、硬筆と毛筆というのは、味わうもの・感じるものが大きく違うように思う。硬筆では基本的にはある程度の長さの文章を書く。なので、文章全体や文脈の世界観を味わうことになる。毛筆でも文字の持つ世界観というのを味わうが、書くという体験そのものを味わう。特定の書体や、書家が書いたものを手本にするのであれば、それを書いた人の息遣いや気脈と呼ばれる、線と線の間の見えない部分にも込められた気持ちの繋がりを感じる。毛筆は書いた人のその瞬間の在り方の向こうに生き様や物語を感じ、硬筆は、文脈の向こうにある物語や情景のさらに先に、書いた人の物の見方、ひいてはやはりその人の人としての物語のようなものを感じる。いつもそうしているわけではないが、考えてみるとそういうことなのだと思う。そう思って取り組んでみるとこれまでとはまた違ったものが見えてくるだろう。

そんなことにつながることを考えながらお手本を眺め、さあ書こうと思ったら、万年筆のインクがつかない。久しく使っていなかったからか。「どんなにいい道具も(それは硬筆用の日常使いのものだが)使い続けたり手入れをしたりしていなければ錆びついてしまうのだな」と思いながら、インクを出そうとあれこれやっていると紙にインクが飛び散ってしまった。

そこでまた浮かんでくることがあった。いつもならそれを日記に書くところだが、今日は詩にしてみることにした。今日硬筆に取り組もうと思ったのも、そもそもはそのうち詩を手書きで書いてみたいと思ったからだ。少し前から短歌に興味を持っていたものの、ルールのようなものから入るのは面倒だと思ったため、現代詩と呼ばれる自由な表現を試してみたいと思っていた。(そう思いながら顔をあげると正面の書棚の中に『大人の短歌入門』があることを思い出す。日本を出るときに著者で歌人の秋葉四郎さんからいただいたものだ。そのときはなかなかまだ遠い世界だと思っていたが、そろそろ開くときがきたのかもしれない)

日本から大事に持ってきた本の中に、谷川俊太郎さんの『空の青さをみつめていると』という本がある。第一詩集である『二十億光年の孤独』など、初期の作品が収められた詩集だ。これが二十代で詠まれたものだと思うとのけぞってしまうくらい、何度読んでも深淵で、光と陰を感じているような世界観を感じる。(おそらく今の私にはまだ捉えきれていないことも多々あるだろう)こんな世界観を体験するのかさえ分からないけれど、今感じることを、精一杯、言葉にしてみたい。その表現の一つが詩だと思っている。今はどっぷりと言葉の世界に浸かり、同時に全く言葉を使わない世界にも浸かり、その中でゆらゆらと揺れていたい。そして今のところ、できれば歳をとったら、詩人であり茶人であり、可愛らしいおばあちゃんでいられたらと思っている。そのときにはもう、言葉のことも茶のことも忘れているかもしれない。それくらいが丁度いい。忘れるほどに、味わい尽くす、今やっと見えてきた道だと思っている。2019.7.13 Sat 22:22


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