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歴史は夜つくられる 映画「サンセット」によせて

多文化共生がうたわれながら、その反発とも向き合わなければならない時代に、20世紀初頭のブタペストを参照するというのは、意味深く現代的な視点だと言える。『サウルの息子』(2015)でアウシュビッツ強制収容所の過酷な現実をひとりの男の視点から、その独特な映像スタイルとともに描き出したネメシュ・ラースロー監督の長編第二作目である『サンセット』は、まさにその時代、第一次世界大戦の開戦前夜のオーストリア=ハンガリー帝国に焦点を当て、若きひとりの女性をジャンヌ・ダルクのように見立てながら、彼女の視点から栄華と破滅をたどったヨーロッパの姿を映し出していく。

STAFF
監督:ネメシュ・ラースロー
製作:シポシュ・ガーボル / ライナ・ガーボル
脚本:クララ・ロワイエ / マシュー・タポニエ
CAST
ユリ・ヤカブ
ヴラド・イヴァノフ
エヴェリン・ドボシュ
マルツィン・ツァル

オーストリア=ハンガリー帝国が隆盛を極めた時代。それは欧州各地から人々が集まり様々な言語が入り乱れ、文化の交流が行われた時代。作家のフランツ・カフカもいれば、画家のエゴン・シーレもいる。言語哲学者のヴィトゲンシュタインの姿もあれば、精神科医のフロイトの言葉も聞こえてくるだろう。この映画はその時代を再現するために大掛かりなセットを組み立て、全編フィルムで撮影された映像世界は、どこかフェリックス・ヴァロットンの絵画のような、まばゆい輝きと淡い色彩感覚、光と影の陰影が映し出す犯罪の匂い、そしてその彼方に見える翳りのようなものを覗き込ませる奇妙な感覚を想起させる美しさがある。

物語はそうした国際色豊かな都市の様相とはうらはらに、文化的豊かさやブルジョワジーに対しての反動か、反政府組織や民族主義者らの自治独立を求める過激な闘争が闇夜に動き出し、昼間のきらびやかさとは対照的に描かれている。
やがて時代はサラエボ事件を引き金とした第一次世界大戦へと突き進んでいき、絶頂期にあったヨーロッパの自滅を描き出していく。

監督であるネメシュ・ラースローは公開にあたってのインタビューのなかで、この作品のことを『岐路に立った文明についての映画』だと答えている。様々な文化や宗教を統治する多民族国家であり、来るべき多文化社会を見据えた壮大な実験は、いかようにして失敗に終わったのか。この映画は、世界戦争直前の欧州を漂う退廃的な雰囲気というものを的確に捉え、スクリーンに投影させてみせる。

ヒロインであるイリスは、両親が残した高級帽子店に職を求めて現れる。店の現オーナーであるブリルは、彼女を無下にあしらい追い返す。身ひとつでブタペストにやってきたイリスは、引き返すこともできずに街に残り、都市を彷徨い続ける。
やがては店で働けることになるのだが、今度はいるはずない兄・カルマンの存在を語る人物が現れ、彼女にここを去るよう警告を口にする。イリスは兄の行方を探すなかで、暗躍する謎の組織や、その組織と兄との関係。高級帽子店の裏の顔の実態などを知ることとなる。イリスの前に現れた黒装束のレディ伯爵夫人とは、どうやら自身の夫をカルマンに殺されたらしく、5年ものあいだ喪服の黒いドレスをほつれたまま着続けている。彼女のその異様な雰囲気が、ブルジョワジーとそれを憎むものとのあいだに、闘争の犠牲者として大きな影を落とす。

個別のモチーフに目を向ければ、当時の流行でもあったブリム(つば)が広く派手な装飾が施された帽子が目を引くが、本作における帽子はそのビジュアル的なイメージからも非日常的な幻想性をまとうものとして扱われている。裕福な世界の象徴として表面的な美しさを見せながら、その陰に暗部を閉じ込める。映画の冒頭はまさに帽子の陰にさえぎられたイリスの表情が見えるところから始まっている。また、帽子屋という立ち位置は、富裕層と労働者層の中間に位置するものであり、サラエボ事件によって暗殺されたフランツ・フェルディナンド皇太子夫妻が店に訪れる場面があるなど、物語を駆動させる装置としても魅力的な舞台として描かれている。

前作から引き続き、撮影にも作家の独特な美意識が見られる。カメラは常にイリスの表情に、その横顔や後頭部のうなじを執拗に追い続ける。絢爛豪華な舞台を仕立てながら、その景観を見せるようなロングショットはない。彼女が見た現実や、耳にした情報のみが観客に提示され、いまどこで何が起きているのか、という補足的な情報が一切ないまま物語は進行していく。そうした不可解な世界の感触、質感や肌触りのようなものを味あわせるこの映画は、監督の言葉から読み取るに、視覚よりも知覚を揺さぶる映画だと言えるだろう。目に見えるものだけが提示されながら、決してその情報を繋ぎ合わせただけではこの世界の輪郭さえ掴むことはできないのだ。


主に新作映画についてのレビューを書いています。