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りんごを解けば①

ゴムの化学的性質は、そのまま煩悩の塊の象徴。
この世界観を、もう少し解像度をあげてみていきたい。

ゴムの風景は、鎖がある範囲で自由に動ける世界である。
しかし、鎖がのびきってしまうと、もうその外へは行けない。そこで動きはゼロにリセットされてしまう。

その様子は、集団で1つの神話を生きており、それぞれが生きることを許されている範囲が限定され、役割分担されている風景ともいえるかもしれない。
役割分担を割り振られているひとりひとりは、その分担外の世界を知ることができないし、知りたいとも思わず、延々と、物語のパーツのみを繰り返して演じる係、として任命されている。

人が生きていて満足度を感じる時は、本質的には、物語の起承転結すべてを味わいきった時である。それは、感情を伴いながら、そのプロセスを自ら辿り、最後に果実を手に入れ、その果実をいただく。この一連の物語に携われているならば、人は基本的に幸せに生きられる。

ところが、この種の本質的な幸せ、というものが、個人からほとんど取り上げられてわたしたちは社会生活を営んでいる。日々の暮らしを切り取って、その成り立ちを少し考えてみるとよくわかる。都会に住んでいると、まず電気や水、ガスがすべて、インフラとして外から供給されているものを、労働によって手に入れた金で購入している時点で、この物語を自分で生きるというところからかなり隔絶されてしまう。

多くのゴム的な人々は、この種の、プロセスの喪失に関して、わたしとは逆の感性を持っている。面倒なことを省略できて、金で買えて、私はそれで得をしている、と。

その発想の最たるものは、プロセスは全部省略して、物語の最後のシーンだけ、大量にあったらいいのになあ、ということに行き着く。

たとえば、アルプスの少女ハイジ、は、アニメでしかみたことがない、あるいは、幼い頃にデフォルメされた子ども用の絵本でしか読んだことがない人がほとんどだと思うのだが、原作者のシュピリは、ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」及び「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」から着想を得て執筆したそうだ。

Photo by Ricardo Gomez Angel on Unsplash
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アニメにおけるハイジは、天真爛漫な、どちらかというと安直な自然礼賛、のイメージが強い作品だが、原作は非常に奥深い、都市文化と自然との対比の中を生きる人々の葛藤を描いている。
そして、ハイジのインスパイア元になっているゲーテの作品では、主人公は修行を経てフリーメーソンを目指すという内容であり、そこで扱われるメーソンは、2022年において、陰謀論として消費されがちな存在というよりももっと本質的に、都市と自然との葛藤、その統合を本気で考える人々の信仰の延長としての、自然な帰結だったのではないか。昨今、メーソンといえば金融資本主義の手先としての悪役アイコン的に扱われることが多いが、本来、その源流はそんな安直なものではなかった。
そして、ハイジはその流れのひとつを結晶化した優れた児童文学なのだ。

ということを踏まえ、もう一度、アニメしか印象に残っていないわたしたちがハイジに描く、記号的なイメージを思い返したい。クライマックスにおいて、クララが車椅子からたちあがって歩けるようになるシーン。あのシーンの多幸感だけが印象に残ってはいないだろうか。実際、あのシーンはパロディ化もされたし、CMにも用いられた。あそこまで果実として商業利用されても耐えられるのは、ハイジに深い物語性がある故、というわかりやすい例だ。

わたしたちは、物語全体を自分で紡ぎ、自分で味わい、収穫する、ということを、どちらかというと面倒だと思っているし、最早そんな体験なんて人生には存在しない、と信じ込まされている。

それは、毎日毎日誇大な時間をつぎ込んで、労力を傾けている先は、自らの物語ではなく、他人の物語だとも言える。
自分が長時間かかわったプロセスのその先に実る果実は、他者の手にわたるようにできている。

そして、逆に、他の物語の帰結として実った果実を代わりに手に入れ、自分を満たす。

そんなあべこべさ、の中を、普通に生きることになっている。

よくよく考えると、これはとても不自然なのだが、そもそもこんなことを思いつきもしないような忙しさの中で、わたしたちは生きている。

そういった、あたりまえのように、プロセスと、その果実が切り離されて流通する世界に生きるわたしたちが陥るしかなくなってしまう、ある種当然の帰結ともいえる、陳腐で普遍的な物語がある。

その物語について紐解いていこう。

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