見出し画像

食えること、受け入れられること

わたしはわたしの食べたもの、というけれども、
そもそも「何が美味しいか」というのは、その人の個性と繋がっている。そしてそれは、遺伝もあるけれど、それも含めて持って生まれた資質であって、その身体的特性と、その人の気質や才能なんかも、表裏一体なんだよなあ、ということにしみじみしている。

よく使う領域の、消費されやすいエネルギーは、確実に足りなくなるので、補充したくなる。それがある種の「美味しい」であるのは間違いない。

このことと、自分に嘘をついて生きる過程で、その憂さ晴らしになる何かが美味しく感じられる、というのを、いかに峻別するか

憂さ晴らしとして美味しいと感じるものを食べ続けると、そのひとらしさは抑圧され、どんどん目が死んで行って、生きる屍のようになってしまう。

この「何を食べられるか」というキャパシティが非常に狭いひとたちも、存在する。そして、広い人たちも存在する。

どっちが良い悪いというよりも、特性なんだよな、ということにしみじみしているのだけど、そのわかりやすい例として、ふと思い出したのはMr.Childrenである。

ボーカルの桜井さんはうお座だ。わたしはめちゃめちゃコアなファンではないけれど、アルバムにしか入ってないようなマイナーな曲の方が好きな曲が多いので、まあ、中くらいよりちょっと下、くらいのファンかもしれない。

中学高校は、ミスチルを聴くことで生き延びていたようなものだ。

で、彼の曲でこの、うお座的特徴が凄くあらわれてると思ったのがこの2曲。名もなき詩と、友とコーヒーと嘘と胃袋、だ。



どっちも彼の一つの愛の世界観を描いているが、特徴的なのが食べ方である。

名もなき詩の方は、
「ちょっとくらいの汚れ物ならば残さずに全部食べてやる」
と言っているし、
友とコーヒーと嘘と胃袋の方も、
「なんだって飲み込んで、なんだって消化して」
である。

私の経験則で、みずがめ座、うお座はとくに、何を食べても体調を悪くしないひとたちだと思っている(悪くなる時はそういうのとは違う物語性がある)。

この、なんでも食べられて、どんな考え方もぜんぶありだよね、というのは
12星座の最終的な境地、最後の最後の境地なんだろうな、と思う。

実際、星と元素に関連する古い文献をあたっていると、うお座はまさになんでも消化できすぎてしまうひとたちだと書かれているので驚愕したところなのでした(このあたりの具体的な内容はおいおい書きます)。

だが、世の中は全員がうお座ではないものね。

それぞれの星座、そして同じ星座であっても、生まれた年や日、場所や時刻によって、そしてもっというなら一卵性双生児であっても、自分のチャートを、肉体偏重側として使うのか、エネルゲイア的=心の豊かさを大切に生きるのか、という選択によって、すべてバランスが変わってくる。

そういうことを、きめ細かに見据えていけたらいいなと思ってます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?