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【書評】珍奇な昆虫:山口進:光文社新書

 ジャポニカ学習帳の表紙写真で有名な昆虫写真家、山口進の、昆虫にまつわるエッセイ。各国の珍奇な昆虫が美麗な写真とともに旅行記風に紹介されている。全編カラー。
 ハナカマキリは実は花のそばにいるわけではなく、花の咲かない葉や茎の上で自身が花になりきって獲物を待ち伏せしている。
 タイのフンコロガシは土中に小玉スイカほどもある糞球を何個も作る。
 アリの巣のなかで生育するシジミチョウがいる。
 アブラムシを食べるシジミチョウがいる。
 ヘラクレスオオカブトの幼虫は手のひら大。
 テナガカミキリはダニとカギムシを意図的に体表に住まわせている可能性がある。
 バニラはラン科。
 バケツランはミドリシタバチをバケツ内に落とし、設けた出口へ誘導することで背中に胞子嚢をくっつけ、くっつけた胞子嚢で受粉する(しかもランの種類によって間違いが起こらないよう、胞子嚢の形やくっつく位置が違う)。
 ゴホンヅノカブトムシはタケノコの若芽を切って汁を吸う。
 パプアキンイロクワガタは植物の茎を切って汁を吸う。
 トビモンオオエダシャクは体表の成分まで枝に似せている。
 ハキリアリの新女王は口の中の専用のくぼみに元いた巣のアリタケの胞子を入れて旅立つ。
 ある種のハチのメスに擬態した花をつけ受粉者を呼び寄せるハンマーオーキッドなるランがいる。
 といったところだろうか。実際に著者が現地へ足を運び観察した結果が記されているので面白い。

 昆虫について思うこと。動物であれば、姿が違うだけでどれもだいたい似たような生態を持っている。特に哺乳類となると、それほど代わり映えがしない。しかし昆虫となると種分化が激しいというか、関係性が複雑というか、とんでもなく奇妙な生態となったりするから面白い。花と昆虫の関係でも、特定の昆虫だけを運び屋に選んだ結果として特異的な花をつけるようになる例というのは本書でも見られる。虫そのものに形態を寄せてしまったり、巧妙な仕組みを設けたりと。こういうのは何と言えばいいのだろう。一般に対する特殊。いや、ある種トリビアリスティックな印象を受ける。

 レーモン・ルーセルについて最近想起する機会があった所為かもわからないが、どことなくルーセルっぽさを感じる。昆虫の特殊な生態と、ルーセルの描く物品にまつわる特殊な経緯というのは、その特異性、局限性という意味において、どことなく通じるところがあるような気がする。そこまでの進化の筋道に思いをはせると、それこそルーセル的な、特異な経緯というか、奇妙な物語のようなものが幻視されるような感覚がありはしないか。ありはしないか? どうだろう。ないか? あるような気はする。ないか。いや、あるような気はする。

 また最近永井均著「これがニーチェだ」を読んでいる関係から考えてみると。ニーチェの言う「ディオニュソス的肯定」というのは、動物のような非言語的意識主体のあり方に近い。が、一口に動物と言っても、では昆虫はどうかというとちょっと印象が違ってくる。犬猫のような哺乳類はまだ喜ばしい在り方をしているように思われるが、昆虫となると首肯しがたいようなところがある。その所以には、実は何かそれなりの問題が秘められているかもしれない。
 本書でよく描かれているように、昆虫というのはどことなく「意志なき存在」といった印象がある。その生の全幅にわたって、昆虫の行動は本能に基づいているように思われるから。それは、極めて複雑な行動を何の学習も経ず生得的にやってのけるようなところからうかがわれる。昆虫の生というのはある意味、高度な「ドミノ倒し」のように反応の連鎖により成り立っているという感がある。
「意志なき存在」という印象を受ける昆虫の際たるものがアリのような社会性昆虫だろう。本書で紹介されているミツツボアリは、乾燥地帯で生き抜くためアリの腹に直接蜜を溜める生態がある。この蜜溜め要員は、一生日の目を見ることもないまま、地下深くでひたすら巣の天井からぶら下がり、容れ物としての日々を送る。ああ、こう書いてしまうとさも哀れっぽいものの、それは人間の価値観だろう。とはいえそうした人間的な感情移入を抜きにしても、彼らはそのような一生を「喜ばしいもの」として絶対的に肯定しているのだろうか、というと疑問を覚える。
「肯定/否定」という価値空間を超えた、絶対的な肯定。――しかし、昆虫の生というのは、価値空間を超えてはいるが、ただそれだけ、という感がある。逆に言うと、その「絶対的な肯定」というのは、なお意志的なものを含んでいる(ものとして自分は解釈している)と言えるのではないか。そして、ニーチェ=永井の論も、そこにある種の意志を仮定しないと成立しないのではないか。
 そこに意志を見出さないと喜ばしい在り方に思えないということは、どういうことなのか。昆虫というのは、無意志的に世界を(自己の行為も含めて)ただ眺めるという、ある種ヴィパッサナー瞑想が達成すべき境地に生得的に至りついたような在り方をしているのではないか。
 となると、喜ばしさの源泉は意志? しかしニーチェは意志を否定している。「世界開闢」そのものが源泉であるべきだろうし、その意味で言うと昆虫だって喜ばしいと思えそうなものだが、やはり昆虫に、意志とか自我といったものを見出すには、あまりにその生態はシステマタイズされ過ぎているように思われる。単純に形態として人間と似ていない、友達になれそうにない、というのも理由としてあるかもしれないが。
 この話の重要な点は、「価値空間を超えた絶対的な肯定」であれ、それが「肯定」である以上、「主体」が想定されているということだろう。しかしなお、その主体が「意志的主体」なのか、それとも「非意志的主体(端的な主体)」なのかは疑問できる。というのもニーチェの言うところのこの肯定は、「自ずとなされる肯定」でなければならないから。意志的な肯定には必ずルサンチマンがあり、それは別の価値空間を形成してしまう。しかしそんなこと言ったら、ことこの期に及んで何か語りうることがあるだろうか? 昆虫も犬猫も人も、それを主体と見、そこに意志を見るというのは、結局のところ見なしの問題にすぎないのだから、どうとでも見なすことができる。この私だけは別だが。
 そう、実のところ「価値空間を超えてはいるが、ただそれだけ」でいいのではないか。それが「ディオニュソス的肯定」ではないか。価値空間を超えたところでただ生きる、という。それ以上をしてしまうと、つまり「私ハッピーです」みたいな自覚があると、もうルサンチマンが匂う。それに、永遠回帰を鑑みると、その生がいかなるものであってもそれを無条件に肯定することがここでの肯定のあり方なので、苦しいときはただ苦しむべきであり、そこで「この苦しみも私は肯定するぞ」とか「苦しみこそ喜びだ」とかいった自覚はやはりルサンチマンとなる。
 そう考えてみると逆に、昆虫こそ「ディオニュソス的肯定」のもとに生きる「超人」そのものだと言えそうでもある。


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