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ハゲ頭について思うこと

私の父は、私が生まれたときには既にハゲはじめていました。
私が中学生になる頃には立派な波平スタイルで、父本人はさして気にしていなかったけれど、職場の女性に

「娘さんももう年頃だから、お父さんがハゲているのは嫌なんじゃないですか?
カツラを被っては如何ですか?」

と言われたそうで、当時中学生の私に父が

「職場の人にそう言われたんだけど、お父さん、カツラを被ったほうがいいかな?」

と尋ねたそうなのです。
当時はちょうどテレビコマーシャルでアデランスを激オシしていたこともあり、恐らくハゲ頭にカツラを乗せるのが流行っていたのかもしれません。

そして、そう聞かれた私は。。。

烈火の如く怒り狂って

「お父さんがハゲていて誰かに迷惑かけてるの?! お父さんは堂々としてればいいじゃない! そんなの大きなお世話だ!!!」

と大憤慨していたそうでした。

まったく覚えていないけど、まぁ私なら言いそうな言葉です。

そして、怒り心頭の娘に怒鳴り散らかされたにもかかわらず、父はとても嬉しかったとニコニコしながら話してくれました。


別に、ハゲ頭のお父さんと並んで歩くことを、恥ずかしいと思ったことは今の今まで一度もありません。
むしろ、満員電車の中で目の前に、1つの毛穴から7本毛が生えてる男性の頭皮にドン引きしたことさえありました。

乗せる人の気持も植える人の気持も、私には理解できません。

これには理由があります。


お父さんのお父さん、私のおじいちゃんは、完膚なきまでのハゲ頭でした。
お父さんが波平ヘアならば、おじいちゃんは友蔵頭です。ツルッパゲで一本も生えていませんでした。

まだ私が小さな頃、夜になって蛍光灯の明かりがついたとき、真下に居たおじいちゃんの頭が、反射でピカッと光りました。
私も一緒に居たいとこ達も、まるで蛍光灯が一気に2倍ついたみたいで面白くてケラケラ笑って、そして楽しそうな孫たちの笑顔を見て、おじいちゃんも幸せそうにニコニコしていました。

その時から、私にとってハゲ頭とは、楽しくて幸せになれる、光り輝く頭になったのです。

そんな楽しくて幸せな頭にカツラを被せるなんて言われたら、憤慨しないわけありません。
別に、ハゲてない頭をつまらないと否定しているわけではありませんが、人それぞれ、持ち味があることの何がいけないのだろうと、中学生の私は本気でそう思ったのでした。


今も、薄毛だとか生やすだとかいう単語が聞こえてくることがありますが、私はこう思うのです。

その薄毛やハゲも、大事な個性。
胸毛だって脛毛だって、生えている人とない人が居る。
胸毛はあってもなくてもいいのに、頭髪はなくてはならないなんて矛盾にもほどがある。

昔の日本は、男性は成人すると剃髪して髷を結っていました。
頭の毛を剃ることにたいした躊躇いも無かった、というわけです。

時代によって価値観や美醜の基準がかわることに、なにか違和感を感じませんか?
人間の風貌はこの何千年とたいして変化していません。
毛量の差なんて、生きていくうえでは些末なことのように思います。

茶色の犬と白い犬、可愛らしさに違いがないのと同じ。
なのに美醜をわざわざ決めることにもしも意義があるのだとしたら、それは人間の間にわざわざ格差を作るため、としか思えません。

そんな物を作り、得をするのはどんな存在?

そんなことを思わざるを得ないのです。だって、あの頃きっとアデランスは儲かっただろうと思うから。

ハゲ頭は恥ずかしい事だと思いこんでいる人が居る一方で、私のようにハゲ頭は楽しくて幸せなことだと思いこんでいる人も居ます。

それなら、自分が何を思い込むのか。それを自分で決めてみても良いのかもしれない。
大切なたった一人の自分という存在が、尊いものだと感じられるような、そんな価値観を持てばいいんじゃないのかな。


これはハゲ頭だけの話ではなくて。
どんなものにも、当てはまる事だと思うのです。

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