見出し画像

自分が猗窩座だと気がついてしまった

※ヘッダーは、鬼滅の刃公式Twitterで配布された画像を使っております。


唐突の自白です。

もう本当に遅ればせながら、最近鬼滅の刃を見始めました。
なんとなく、流行り物に安直に手を出す気にならない天邪鬼でしたが、アニメを何気なく見てみたら面白かった(*´ω`*)


人の心の光と闇を、これでもかと書き表していて、圧巻!


これまで心理カウンセリングやコーチングを学んできた身としては、様々な、人の心をつらくさせるケースにあてはめてはしんみりになりつつ、それなのにテンポよく惹きつけられる楽しく可愛いアニメにもう夢中。


最初に見たのは、無限列車編でした。
物語の最後に出て来た猗窩座。
もう、炭治郎たちの頼れる兄貴分だった煉獄さんを亡きものとしたにくき敵!
敵!
紛うことなき敵の登場!

なのに、私は猗窩座のことを何故かそれほど不快には思えなかった。
ちょっと好きだと感じたのです。


最近、とあることに気がつきました。

私は子どもの頃から自分のことを、みにくいアヒルの子だと思っていて、悲壮感とともに

私だって大人になったら綺麗になるんだ!

と強く願い、自分にそんな魔法をかけていました。
その魔法の効力なのか。
年頃になる頃、周りの人たちに 可愛い! と言われることが増えてきました。
それも、同い年くらいの女の子に特に。


みにくいアヒルの子のキッカケは、幼少期にまで遡ります。

言葉を覚えたばかりでまだ幼かった私は、とあることがキッカケで、遊んでくれていた従兄のお兄ちゃんと口喧嘩をしていました。口達者で生意気な幼子に、それほど年齢の変わらないお兄ちゃんも怒ったのでしょう。

言い争いの途中で、お兄ちゃんが私に

醜いくせに!

と言いました。
売り言葉に買い言葉の子どもの喧嘩です。お互いにテレビなどで覚えたののしり言葉を総動員していただけで、深い意味なんか解っていなかった。
言われた私も、バーカバーカみたいなノリで受け流していたのですが、近くにいた私の母が

女の子に醜いなんてひど過ぎる。。。

と突然号泣したのです。
従兄も私もめちゃくちゃビックリして、喧嘩なんかその一瞬でピタリと止まりました。

お互いの母親が側にいたので、従兄の母が息子に対して、私の母に謝るように言い、従兄は私の母に謝りました。

その場はそれで終わりましたが、私のみにくいアヒルの子はおそらく、そこから始まりました。


私って、おかあさんを号泣させるほど醜かったの?!

母は綺麗な人だったのですが、私は父似で母にはちっとも似ていない。
母とはまったく親子に見えないくらい似ていませんでした。

私はだめかもしれない。。。
私がおかあさんに似て可愛かったら、きっとおかあさんを泣かすことなんてなかったのに。

大好きなおかあさんを号泣させてしまったことがトラウマで、自分の容姿が悲しくて。


そんな私も成人する頃には、老若男女問わずに可愛いと言ってもらえるようになりました。
幼い頃にかけた魔法が効いたんだ。

嬉しくなりながらも、どこか心の底では

本当かな?
手放しで私かわいいなんて思ってはいけないような気がする。

そんな思いは消えませんでした。
ずっと、私はオトコみたいで可愛くなくてモテないんだって拗ねていました。




それからときが過ぎて。
人生を半世紀ばかり生きた頃、友だちに何気なく自分のことを話していたときに、これまでショーヘアにすることがどうしても出来なかったと話しながら、思わず号泣してしまったことがありました。

👧だってショートにしたら男の子と間違われるもん!

と口走りながら泣いてる自分に、なにより自分がいちばんビックリ。
まさか自分がそんなことを思っていたとも気づいておらず、しかもそう言い放ったのは紛れもない、幼子のままの自分なのです。
だって今私、○○だもん! なんて言い回ししないですもん(笑)


みにくいアヒルの子だと思い込んだ幼い私は、一生懸命周りの人たちから可愛い女の子だと思ってもらえるように、髪の毛を長く伸ばしてひらひらピンクの花柄のワンピースを着て生きてきました。

ひとえに、ひとえに、おかあさんをもう二度と自分の醜さのせいで泣かせたくない一心で。


今、私はショートカットにしてシンプルな無地の服を着ていることが多いんです。
本当はそんな装いも好きだった。
思えば子どもの頃は、無地の服ばかり着ていました。

そして、随分経ってからもうひとつ気がついたこと。

実は私は自分のことを、本気で醜いなんてほんとうは思っていなかった。
誤解を恐れずに言えば、心の奥底では自分が可愛いことを知っていました。

だって、私はコスプレイヤーをしていたこともあるのですから。

Sound Horizonのヴィオレット(夜子)

本気でだめだと思っていたら、まず多分コレはできないような気がする。
コスプレなんて、素敵な世界観を再現したり写真を撮られてナンボです。
今ならわかります。
私は間違いなく、

コンプレックスがあることにしよう

としていました。
なんのためにそんなややこしく余計な苦しさを持とうとしていたのか。

👧だって!

心の中の小さい私が言います。

👧だって、私が可愛いならどうしておかあさんは泣いたの?
整合性がとれないじゃない。
私の容姿がだめだからおかあさんが泣いたんでしょ?
ほんとうは、自分の容姿が好きだけど、そうするとおかあさんとの整合性がとれないもん。

おかあさんをただただ肯定してあげたくて、小さい私は自分の容姿がだめなことにしておこうと決めていたようでした。


そのことを思い出して、きちんと自覚したとき。
ふと、鏡に映る自分の姿がはじめて素直に綺麗だと感じられました。

コンプレックスがある。
こんなのイヤだ。
だめだ。
おかあさんみたいに綺麗になりたかった。

何故そう思い続けていたのかの理由に気づいたとき、その思いが外れたらそこには、もともとは素直に気に入っていた自分の姿があったのでした。

クマもたるみもシワもない頃に気が付きたかったなぁ。・゚・(ノ∀`)・゚・。


で。

で。

気づいたのです。
私は猗窩座だってことに。


ここから先は、鬼滅の刃を見ていない方には意味がわからない話ですし、アニメ派の方にはネタバレになるのでよろしくお願いします。


猗窩座

いや、ショートにしたからちょっと見た目も似てるかもしれませんが、言いたいことはそうじゃないです。・゚・(ノ∀`)・゚・。


アニメの範疇でわかることとしては、猗窩座は弱い存在に対して不快感を顕にします。
無限列車編で、満身創痍の炭治郎を放っておくのではなくわざわざ先に始末しようとしていました。
その理由はひとえに 邪魔だから。


そして闘気と剣技を練り上げた、煉獄杏寿郎のことを評価し褒めそやします。

鬼になれ、杏寿郎!


強い煉獄さんを自分と同じ土俵に招き入れようとしていました。

強さこそすべて。
猗窩座の世界には、強いか弱いかしかありません。


そしてここからは、コミックのネタバレになっていきます。

猗窩座がこんなにも強いことに拘っていた理由。
それは、病身の父親に薬を持ち帰りたかったからであり、恩師と恋人の窮地を救いたかったから。


自分のためなんかではない。
お父さんが大好きだったから。
恩師と恋人が大切だったから。


そのために、何百年という自分を見失い続けた鬼の期間を、ひたすら鍛錬に費やし強くなろうとしていたのです。


無限列車編の段階では、そんなことわかりませんでした。
それでも必死に煉獄さんを鬼に勧誘する姿、勝敗よりも強さを極めることにこそ価値を置く、敵役らしからぬ言動。

猗窩座の行動原理はすべて、大切な人のために。
そのために自らを削り、削ることでしか思いを果たすすべを見いだせなかった。


本当は恩師に教わった格闘術で充分に強かったのに。
自分ではどうしようもなかった運命と、自暴自棄になった心の弱さに対して己を責め続けながら生きていた。


そんな猗窩座の姿と自分が重なって見えた時、言いようもないほど切ない気持ちになりました。


人は大切な人のために。
時に自分でも驚くような方法で相手を守ろうとしたり、自分自身を責めたりするのかもしれない。

猗窩座に自分を重ねて、そんなことを思ったのでした。

この記事が参加している募集

アニメ感想文

今こそ読みたい神マンガ