見出し画像

《美術史》バロック美術

こんにちは。
Ayaです。
今日はバロック絵画についてまとめます。バロック絵画を代表する4人の画家を紹介します。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571〜1610)

カラヴァッジョは1571年に生まれ、ティツィアーノの弟子のもとで修行します。レオナルド・ダ・ヴィンチの作品を参考にしながら、当時主流だったマニエリスムではなく、独自の画風を思索します。
1592年喧嘩沙汰を起こし、ローマに逃げこみます。当時の法皇クレメンス8世の画家のもとで働きますが、解雇され、独立します。
1600年代表作の『マタイの召命』を完成させます。イエスが徴税人マタイを弟子にするシーンですが、光と影の表現が画期的で、バロック美術の記念碑的作品と評価されています。この作品で評価を確立し様々な注文を受けますが、素行の悪さは変わっておらず、1606年に殺人事件を犯します。

『マタイの召命』
イエスとペテロは聖書時代の服装だが、徴税人たちは作成当時の服装。マタイはだれなのか、発表時から論争になっていた。

指名手配されたカラヴァッジョはナポリのコロンナ家に逃げ込みます。ナポリからマルタ島へ移り、マルタ騎士団の騎士に取り立てられます。しかし、ここでも喧嘩沙汰の事件を起こし、騎士団員に怪我をさせため、投獄されます。脱獄し、シチリアに逃れます。このときは今までの名声もあり、大名旅行のようだったと言われています。ほとぼりが冷めると、ナポリに戻ります。しかし、正体不明の者に襲撃され、弱気になったのか恩赦を求めてローマへ向かいます。その旅の最中、熱病で突然亡くなります。享年39歳。

『ゴリアテの首を持つダビデ』
恩赦をもらうために美術愛好家の枢機卿に描いた作品。
ゴリアテの顔はカラヴァッジョ自身の自画像といわれている。

素行の悪かったカラヴァッジョですが、その画風は後世の画家に影響を与え、バロック美術を確立しました。特に影響を受けた画家は『カラヴァッジェスティ』と呼ばれており、有名な画家としてはアルテミジア・ジェンティレスキやジョルジュ・ド・ラトゥールが挙げられます。

『ホロフェルネスの首を切るユーディット』
画家の娘で有名な女流画家。強姦で師匠を訴えたが、逆に拷問をうけた。
『悔い改めるマグダラのマリア』
ラトゥールはよく炎のある風景を描いたので、『炎の画家』と呼ばれた。

ピーテル・パウル・ルーベンス(1577〜1640)

ルーベンスは1577年に生まれ、ネーデルラントのアントウェルペンで育ちます。生後すぐ父親が亡くなり、13歳の頃には伯爵の未亡人の家に仕えます。この伯爵の未亡人のもとで才能を見込まれ、画家の徒弟となり、1599年に独立します。1600年には念願だったイタリアへの絵画修行を果たし、マントヴァ公の庇護を受けます。このマントヴァ公の使節としてスペインを訪れますが、これが外交官としての活躍の原点となります。1608年までの8年間は巨匠たちの作品を吸収し自らの画風を確立する大切な時期となります。
1609年に母の病気のため帰国、母は帰国前に亡くなってしまいますが、地元の有力者の娘と結婚します。翌年には大工房を備えた新居に転居します。ルーベンスの工房には常にたくさんの弟子や職人が出入りし、有名画家との共作も手掛けました。弟子として一番有名なのが、ヴァン=ダイク(チャールズ1世の宮廷画家)で、共作相手としてはヤン・ブリューゲル(ブリューゲルの息子)です。大規模な工房経営は人々の批判を浴びたようですが、それまで受注形式しかなかった絵画をすぐ引き渡しできるようにしたシステムは画期的でした。また作品をすぐ版画にし広めることで、自身のブランディングにも成功したと言われています。
彼の最高傑作『キリスト昇架』、『キリスト降架』が作成されたのもこの時期です。

『キリスト降下』
キリストが十字架にかけられる瞬間と刑を終え、降ろされる瞬間が対となって描かれている。『フランダースの犬』の主人公ネロが見たかった作品。

1621年にはフランス王母マリー・ド・メディシスの注文を受けます。マリーの生涯を描き上げたあとは、彼女の亡夫アンリ4世の生涯を描く予定でしたが、マリーの亡命で頓挫します。不思議なことにこのマリーはケルンで客死することになるのですが、そのときに滞在していた邸宅はルーベンスが一時期住んでいた邸でした。このほかにも故国ネーデルラントとスペインの戦争(オランダ独立戦争)が一時停戦すると、使節としてスペインに渡るなど、画家としてだけでなく、外交官としても活躍します。
私生活では妻を亡くしますが、1630年には16歳のエレーヌと再婚します。彼女の豊満な裸体は『ルーベンス風』と呼ばれ、ルーベンスの裸体の描き方を後世に伝えることとなります。その後も悠々自適に過ごし、1640年に亡くなります。享年62歳。

『三美神』
後妻エレーヌは『アントウェルペンのヘレネー』と讃えられる美女だったという。

レンブラント・ファン・レイン(1606〜1669)

レンブラントは1606年にネーデルラントのライデンに生まれます。両親からは法律家になる期待を受けますが、大学はすぐやめてしまい、画家に弟子入りします。有名な画家に師事し、4年後独立します。1632年には『テュルプ博士の解剖学講義』で評価されます。

『テュルプ博士の解剖学講義』
外科医組合からの依頼で、内科医テュルプ博士の解説を聞きながら研究に励む外科医を描いている。当時医者として認められていたのは内科医のみで、外科医は理髪業とされていたので、職業の地位向上をめざしたものである。

1634年にはサスキアという裕福な家庭出身の女性と結婚し、持参金や上流階級とのつながりを得ます。常に上流階級から注文を大量に受け、成功します。しかし、金遣いは荒く、自らも美術品収集や投資に精を出します。その有様は彼女の持参金はレンブラントの放蕩三昧に使われているという陰口を叩かれるものでした。投資は全く成功せず、そのうち負債も抱えるようになります。
1642年には代表作『夜警』(本稿トップ画)を発表します。この『夜警』がレンブラントの評価を下げたと言われていますが、実際は違います。翌年妻サスキアがなくなり、お手伝いの女性を雇いますが、その女性と関係を持ってしまいます。この女性以外にもヘンドリッキエという女性と関係を持ち、ヘンドリッキエに嫉妬したお手伝いの女性から婚約不履行の訴えを起こされてしまいます。この裁判にはなんとか勝訴しますが、悪名が広がり、仕事は減ってしまいます。しかし、癖になっていた浪費からは脱却できず、1656年自己破産してしまいます。自己破産してからも絵画制作に励みますが、元愛人で2度目の妻ヘンドリッキエも亡くなってしまいます。さらに息子にも先立たれ、1669年貧困の中亡くなります。享年63歳。

後妻ヘンドリッキエ
前妻サスキアの遺言により、なかなか結婚できなかった。没落後、義理の息子と画商を経営しレンブラントを支えるが、亡くなってしまう。

ヨハネス・フェルメール(1632〜1675)

フェルメールは1632年オランダのデルフトで生まれ、生涯この地で過ごします。彼の修行時代については記録が残っておらず、1654年に親方の登録をしているので、それまでに独立したと考えられます。前年にカタリーナという富裕層の女性と結婚しますが、義母から父親の金銭問題や宗派の違いで反対されます。結局フェルメールがプロテスタントからカトリックに改宗し、同居することで許されたようです。2人の間には13人もの子供が生まれ、義母の援助なしでは生活を送ることが難しかったのです。
実家の宿屋・酒屋経営を継続しながら、画商・画家として生活します。作品は当時オランダで愛好されていた風俗画が多かったです。その作品は不思議な静寂と、高価なトルマリンを使用して描いた'フェルメールブルー'として評価されます。地元の聖ルカ画家組合でも理事を務めますが、不景気にさらされ、1675年亡くなります。享年42歳でした。
生前はそれなりの評価を受けていましたが、長い間忘れ去られ、再発見されるには19世紀まで待つこととなります。

『牛乳を注ぐ女』
当時の最新技術であったカメラを使用して描いたと言われている。
『真珠の耳飾りの少女』
2003年の映画『真珠の耳飾りの少女』で取り上げられていた。少女は実在の人物ではなく、理想的な人物像。


バロック美術、終わりました〜。本当は1人ずつ取り上げるつもりだったのですが、あまりにも短かったので、1回でまとめてしまいました。
ルーベンスとレンブラントは生きた時代も近いですが、人生の歩み方が正反対で興味深いです。
フェルメールは現在では超有名ですが、19世紀まで忘れ去られた存在だったんですね。いつか贋作事件についても取り上げたいです。
次回はマリア・テレジアについてまとめます。


この記事が参加している募集

世界史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?