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《日本史》気になる女性たち

こんばんは。
Ayaです。
昔小説を書いていたためか、数年に一回小説を書きたいという衝動に襲われます。書きたいジャンルはそのときによって違うのですが、今は歴史小説です。
特に二人の女性が気になっています。史実に沿っていますが私の妄想が多分に含まれますので()、ご容赦ください。

倭姫王(天智天皇皇后)

天智天皇の皇后です。彼女の父は古人大兄皇子で、天智天皇の異母兄にあたります。
天智天皇もとい中大兄皇子の歴史的デビューはなんといっても乙巳の変でしょう。

乙巳の変

皆様ご存知のとおり、皇極天皇の面前で蘇我入鹿が惨殺された事件ですが、古人大兄皇子もその場にいました。古人大兄皇子の母は蘇我馬子の娘であり、蘇我氏のバックアップで皇位継承権第一位とされていたので、当然ながらこの惨事に恐れ慄きました。彼はそのまま失脚し、幽閉先の吉野を攻め込まれ、自殺しました。
乙巳の変の動機は蘇我氏の横暴とされていますが、どう考えても真の目的は中大兄皇子のライバル・古人大兄皇子を失脚させることだったでしょう。
その娘である彼女、倭姫王となぜ中大兄皇子は結婚したのかー。
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※ここからはあくまで私の妄想です※
そもそも蘇我氏の権力把握は度重なる婚姻政策の成果でした。その最大の成果が古人大兄皇子であり、彼のために入鹿は山背大兄皇子(聖徳太子の息子)を滅ぼしているのです。そんな彼を蘇我氏が手放すとは考えられず、記録には残っていませんが、彼の妻も蘇我氏出身であると考えるのが普通です。
中大兄皇子・中臣鎌足側が蘇我氏の分家・蘇我山田石川麻呂をその娘(遠智娘・持統天皇母)との結婚で籠絡していることからも、
古人大兄皇子の結婚相手は
蝦夷の娘(入鹿の姉妹)と推定することができないでしょうか。こう考えると、日本書紀の蘇我氏が『邸内のこどもを王子や王女と呼ばせていた』という記述の悪意がわかります。当時は母方の邸で養育されるのが一般的で、古人大兄皇子のこどもは王子・王女と呼ばれる資格があるからです。古人大兄皇子に倭姫王以外にこども特に男児がいたかは記述がないのでわかりませんが、もしいたとすれば、古人大兄皇子の血筋が皇位継承権を独占するだろうという中大兄皇子の危機感を煽ったことは間違い無いでしょう。

倭姫王の系図(※母はあくまで私の妄想です)

さて、乙巳の変とその後のゴダコダで蘇我宗家と古人大兄皇子は滅ぼされてしまいました。倭姫が生き残れたのはすでに中大兄皇子と結婚していたからなのか、それともだれかの庇護があったからなのかは不明です(私は皇極天皇の庇護があったのではと妄想しております‥)
蘇我宗家は滅ぼされてしまいましたが、蘇我の分家はその後も重臣を輩出し続けていましたし、蘇我宗家の威光は侮れなかったのでしょう。だからこそ、中大兄皇子はすぐ即位できなかったわけですし、倭姫と結婚もしくは離婚しなかった理由ではないでしょうか。
とはいっても、倭姫王を皇后にまでする必要はなかったはずです。皇后は称制(天皇の崩御後、次の天皇が即位するまでの政治代行)を行う必要があるので、皇族出身が望ましいとされていましたが、あくまで不文律であり、それまでの型破りな彼の所業を思い返してみても似つかわしくありません。(実際壬申の乱のとき、大友皇子の皇位継承の正当性に疑問符がついたのは彼女の存在が大きいでしょう)
女性皇族としての最高位を与える、彼女に対する愛情は一定以上あったのではないでしょうかー。

酒人内親王(桓武天皇妃)

倭姫王と同じような境遇の女性が、平安時代初頭にもいました。桓武天皇妃の酒人内親王です。
父古人大兄皇子が倭姫王の運命を決めたとしたら、彼女の場合、母の井上内親王でしょう。

酒人内親王系図

井上内親王は聖武天皇の第一子として生まれ、幼い時から伊勢神宮の斎王としてつかえていました。三十代になってから退任し、白壁王(後の光仁天皇)と結婚、当時としては超高齢出産の四十代で他戸親王と酒人内親王を出産しました。称徳天皇が後継者を指名せずに崩御すると、白壁王が即位、井上内親王は皇后となります。白壁王は天智天皇の孫ですが傍流にすぎませんので、井上内親王経由で他戸親王を即位させるための布石でしょう。
しかし、これに納得がいかなかったのが、山部親王(後の桓武天皇)でした。彼は他戸親王よりずっと歳上で政治意欲も高く、虎視眈々と皇位を狙っていたのです。そして、775年井上内親王と他戸親王は突然廃位され、ふたりとも幽閉先で亡くなりました。井上内親王だけでなく若い他戸親王も亡くなっているので、普通に考えて、暗殺もしくは自殺でしょう。
その頃、酒人内親王は母と同じ伊勢の斎王としてつとめていましたが、母と兄が罪人となったため退任させられてしまいました。
その上、山部親王と結婚させられてしまいました。結婚の理由は勿論彼の自己正統化のためでしょうが、彼の彼女に対する寵愛は並々ならなかったと記述されています。

彼女たちの心

さて、彼女たち自身の気持ちはどうだったでしょうか。
いくら権謀術数が蔓延していたといっても、親兄弟を殺されたことを忘れることはできなかったでしょう。
しかしその一方、夫婦として過ごすうちに、相手に対して愛情を持つようになったとしても不思議ではありません。
まず倭姫王ですが、天智天皇の崩御後

ひとはよし 思いやむとも 玉鬘
影に見えつつ 忘れえむかも

(たとえ他の人はお慕いしないようになっても、私にはいつも御面影に見え続けていて、忘れようにも忘れられません)

万葉集

など多数の和歌を残しています。一般的に儀礼的な和歌と解釈されていることが多いようですが、私は夫に対する彼女の深い愛を感じます。壬申の乱時には称制をしていたという説もありますし、大友皇子の正妃・十市皇女は大海人皇子(天武天皇)の娘なので、乱の最中の後宮を切り盛りしていたと考えられます。乱後の倭姫王の消息はわかりません。のちに天武天皇は十市皇女に近江朝廷の祭祀を継がせようとした(十市皇女の急死で実現できなかった)ので、そのときにはすでに亡くなったのでしょう。
倭姫王は子を儲けることができませんでしたが、酒人内親王は朝原内親王という娘を出産しました。彼女も母・祖母と同じく斎王をつとめ、異母兄の安殿親王(後の平城天皇)と結婚しました。しかし、彼の愛は藤原薬子にしかなく、不遇を囲っていました。結局平城上皇の乱の後、妃を辞職してしまいました。母子三代にわたり斎王をつとめ、さらに結婚しているのも例がなく(後代には斎王だけでなく内親王も独身を通すのが普通とされました)、妃を辞するなど前代未聞でした。その朝原内親王も母より先に亡くなってしまいます。
夫と一人娘に先立たれた酒人内親王は、良岑安世を筆頭とした亡夫の息子たちを相続人に指名して亡くなりました。享年76歳。

長すぎましたww。8割ぐらい妄想です()。彼女たちだけでなく、その周辺の人々もとても個性的で魅力的なので、いつか小説を書けるようになったらいいなぁ‥。
今更ですが、《日本史》というマガジンを作成しました。更新は《世界史》よりは少ないかと思いますが、優しく見守っていただければ幸いです。














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