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【詩】非常階段

非常階段

以前住んでいた我が家のリビングから
水色のオフィスビルが見えた
隣の大きな月極駐車場を挟んだ路地の向こう
12階建てのビルの端に付いていた非常階段は
「く」の字を表裏でいくつも積み重ねて
壁に貼り付けただけのような
危なっかしさが漂っていた

その非常階段のてっぺんで
平日の朝8時過ぎに煙草を1本吸う男がいた
彼は天気を完全に無視して
どんな日も無防備なまま
南の方角を見ながら鉄格子に寄りかかり
ゆっくりと煙をくゆらした
そして1本吸い終わると重そうなドアを開け
ビルに吸い込まれていった

いつから彼の姿が私の日常に入り込んできたのか
覚えていない
気が付いたら彼は
慌ただしい朝の時計代わりになっていた

男は一度もこちらを向いたことがなかった
それでも私は 
毎朝彼に心の中で話しかけた
「今日はいいお天気ですね」
「寒いので風邪などひかないでください」

ある朝を境に 
彼の姿を見ることがなくなった
ビルの警備員の話によると
3年ほど前 
山へ夫婦で旅行に行った時
彼の妻は
事故で帰らぬ人となってしまったのだという

暫くして私は
彼が毎朝訪れていた場所に行き
彼が見ていた方向を眺めてみた
立ち並ぶビルの細い隙間から
凛とした優しさと威厳を纏う山が
変わらぬ姿で佇んでいた

遠いのに手が届きそうな錯覚を覚えた

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