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「ひきこもり」出会ったことはありますか?僕がその実在を伝え続ける理由

もう5年以上前になると思います。
いわゆるバカッターの問題が社会に広まったころ、はてブで読んだ「うちらの世界」という記事が忘れられません。(※)

「武勇伝」や「仲間うちの伝説」として極めて一部の世界で起きていた出来事は、SNSによって出会うことのなかった経済的、文化的な差異のある人々の目に触れるようになったという趣旨のエントリーでした。

その結果、バカッター当時者の世界にはない価値観、非社会性や不道徳性のもとで糾弾され、当事者となった若者たちは予想もしていない社会的な喪失を体験しています。

コンビニ、ファーストフードなど、日常に近い世界でさえも私たちには「見えない部分」があるのだと解き明かした”功績”は、SNSがこれから新しい価値を生み出していくのだと高らかに宣言したようでもであり、鮮烈なプロモーションに思えました。

それから、僕たちは、幾度なく日常の「見えない部分」を解き明かされ、それが予想を超える事象だったという経験を積み重ねてきました。
少しは視野が広がったのか、最近は多様性という言葉でそれを表現するケースも増えてきたようにも感じます。

僕は育て上げネットという、”若者”を支えるNPOで広報として働いています。"若者"というのは、いわゆる「ひきこもり」や「ニート」と呼ばれる人たちです。(※普段は広義で捉えられる"若年無業者"という表現を使いますが、今回は伝わりやすさ重視です。)

「支える」というのはどういうことかというと、彼らが失ってしまった社会とのつながり(所属)を持てるようにするということです。

...余計にわからなくなったかもしれません。
彼らは”社会”との接点が極端に希薄になっています。ここでいう"社会"というのは、例えば、友達とか仕事仲間とか、何かあったときに頼ったり相談できる存在のようなものだと思っていただけると嬉しいです。

別の言葉を使えば、無縁とか孤立状態という感じです。
”若者”が安心していられる居場所やコミュニティを持てるようにすることを目的に支援をしています。ただ、じゃあ友達がいれば良いのかとなると、将来的な生活リスクを取り除いたとは言い切れないので、その明示的なゴールとして「働く」と「働き続ける」という経済的な自立をセットにしています。

僕たちの支援は、"若者"と「出会う」ことから始まります。
「出会う」というのはどういうことかというと、彼らに私たちのことを信じてもらい、声をかけてもらうことです。

その声は「相談したい」と明確な意志を示してもらうこともあれば、「もうどうしたらよいかわからない」と八方塞がりで力尽きそうな微かに聞こえるような声であることもあります。

「ひきこもり・ニート」と呼ばれる"若者"に会いたいと願う機会は、多くの人は未経験でしょう。表現を選ばなければ、できれば会いたくないと思う人もいるかもしれない。

科学の世界の言葉には「非実在性」というのがあるそうです。難しいことはわかりませんが、理屈として存在することはわかっていても、それを見つけるまで存在すると認知できないという意味です。

多くの人は言葉として「ひきこもり・ニート」を理解しています。
けれど、彼らと出会ったことがない。
つまり、彼らの実在を認知している人は多くのではないかと思うのです。

彼らは私たちが暮らす日常に共に存在しています。にも関わらず、驚くほどその気配を感じないのは、多くの人が彼らを見つけられていないからです。
バカッターがなければ、その存在に気付くことがなかったように。

ふとした非日常の出来事で「どうやら犯人はひきこもりだったようだ」などと報道がされると、突如、”若者"の実在が浮かび上がります。
その同時性が、起きた事象と認知を紐付けようとする原因かもしれません。そこに関連性があるか結論付けるものは無いかもしれないのに。

深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいている。
そんなふうに「非実在性」は社会から若者へのベクトルだけでなく、逆にも存在していそうです。社会との接点を失った"若者"自身も前述した”社会”を見つけることはできていない状況にあります。

彼らにむけて「無敵の人」なんて言った人もいましたが、それは多分間違いです。だって彼らには敵がいないんじゃなくて社会そのものが見つけられていないのだから。

相互に「存在しているのに存在していない」というのは歪んでいるように感じませんか。この状況は僕にとっては強い違和感があります。なぜ僕たちの社会は"若者"の非実存性を放置して歩みを進めているのでしょう。

よくNPOの社会的機能として、社会にあるスキマを埋め、それを顕在化していくということが言われます。でも、それだけではただ、非実在の社会課題を増やしていくだけで根本の解決にはならないと思うのです。

"社会"が"若者"の実在をつかむこと。
"若者"が"社会"の実在をつかむこと。
そのために私たちは活動しなければならない。
少しでもこの社会から非実在性を取り除くために。

(注意)この投稿は山崎個人の考えであり、所属する(してきた)法人/団体の意思とは無関係です。コメントはぜひ山崎まで。

※...魚拓は残っていますが、すでに投稿主がアカウント削除済みのためリンクは貼りません。読みたい方はググってください。

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