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枠にとらわれない自分らしさを

女の子らしい、とは一体何なのか。

「女の子っぽい」「女子力がある」そんなことを、わたしは幾度となく言われて来た。

その度に、実は違和感を覚えている。


わたしの握力は、右手が13、左手に限っては9だ。
水筒の内蓋とか、瓶の蓋とか、ひどい時はペットボトルの蓋まで開けられないときがある。生活するのに支障をきたすくらい、かなり不便を感じている。シンプルに困っている。
そんなわたしを見て「めっちゃ女子!!!」って言われることがよくある。


女子とは、"か弱い"ものなんだろうか。


瓶の蓋が開けられないのは女子っぽいのか。
重たい荷物を持ち上げられないのは女子っぽいのか。



ちがうと思うんだ、わたしは。



女の子らしいとか、男の子らしいとか、そんな言葉は、もう古いんだと思う。

性別が女性だからどうとか、男性だからどうとか、そんなくくりじゃなくって、みんなひとりの人間としての違いなんだと思う。


男性は狩りに出て、女性は家を守るみたいなそんな時代じゃない現代は、男性が主夫をして、女性が働いてもいいと思う。同性同士で結婚してもいいと思うし、なんなら男性・女性の区別をつけなくたっていいような気もする。

それは、自分の身近に性転換した同級生がいたり、同性のカップルや事実婚者がいたり、トランスジェンダーとして生きている人が何人もいるからなのかもしれない。


"男らしい"とか"女子っぽい"とか、そういう言葉になんとなく違和感というか、ザラザラしたものを感じてしまうのは、わたしが気にしすぎなんだろうか。



わたしはわたしのために可愛くなりたいと思っているし、だからこそお化粧も、お洋服も、髪型も、持ち物も、言葉遣いにも気をつけている。
でもそれは女子っぽくあるためじゃない。
わたしはわたしという人間を大切にするために、"自分らしさ"を大事にしているだけ。

だから、それを「女の子っぽい」とまとめられると"それはちがう"って感情を、心の隅っこでこっそり抱いてしまう。



ひとりの人間としての「わたし」「ぼく」を。

なんだかよくわからない枠にとらわれるんじゃなくて、自分にしかない「自分らしさ」を。

もっと、大事にしてもいいと思うんだ。



でも、誰かを認めることはまた違った誰かを否定するかもしれなくて。何かを許可するには何かを犠牲にしなきゃいけないかもしれなくて。
世の中にはたくさんのルールとマナーと常識があるから、そこを変えていくにはたくさんの時間も労力もかかるんだと思う。

それでも、みんながよりよく生きるために、理解し合おうという姿勢だったり、歩み寄ろうとする気持ちを持ち合わせる必要があるなって感じてる。セクシャリティな面に関わらず、あらゆることにおいて言えることだけどね。



わたしもあなたも彼も彼女も、みんながもっと、生きやすい世の中になればいいなって思う。




今日もおつかれさまでした。





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