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もう二度と、母親に子供を殺させない(あやねぇの裏プロフィール)

「もう嫌や!ぼく、死にたい!」

最初にそれを聞いた時、ちょっと信じられなかった。だって、それを言ったのは、当時5歳の息子だったから。

5歳の子どもが「死ぬ」とか言う!?

息子はそのまま外に飛び出していった。動けない私に代わって、夫がすぐに後を追いかけていってくれた。あまりにもショックで立ちすくんでいる私・・・それは、一度でいいから母親に何も言わずに、ただ抱きしめてもらいたいと願っている小さな女の子に戻ってる自分自身だった。

だけど、私には小学3年生くらいまでの記憶がほとんどない。
ただ、逃げ場のない真っ暗な闇の中で、泣いていたような気がする。

私は小さい時から大人に対して愛想がよく、なんでもそつなくこなす優等生タイプだった。有名大学から大手企業に就職した私を皆が「よくできたお嬢さん」と言う。ただ一人を除いて。それが、私の母だった。

九州男児で「女は家にいろ!」という父と、本当は外で働きたかった母。私は母の笑顔を思い出せない。母の日に「ママ、いつもありがとう。長生きしてね」と手紙を渡しても「別に長生きしたくないわ」って苦笑いする母が幸せそうに見えたことは一度もなかったな。

それでも、子どもにとって居場所は家しかない。家が世界。母に喜んでもらうことだけが私の子ども時代だった。習い事も、母の笑顔が見たくて一生懸命がんばった。母自身が小さい時にやりたかったピアノと英会話。お金が無くて習わせてもらえなかったから、娘にはやらせたかったんだって。

「できがいい子」の私を母は近所の人たちや親戚の前ではいつも自慢していた。ご褒美として、友達の中で誰よりもはやくスーパーファミコンも買ってもらえた。でも本当に私が望んでいたのは、二人っきりのときに「頑張ったね」と褒めてもらうことだったんだけどね。

年に数回だけ会う父については、ずっと単身赴任していると聞かされていたけど、本当は離婚していたことが随分あとになってからわかった。多分、母は近所付き合いの手前、よその人にも「単身赴任中」って言ってたんじゃないかな。

幸せのカケラもないのに、外に対しては、そこそこお金もあってちゃんと生活しているように見せている。だけど…ボロボロの家屋にきれいに塗装したベニヤ板を貼り付けて体面だけを取り繕っているような家で、私と母は「共依存」の関係だった。

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そのつながりがさらに強まったのが父の死。経営していた会社の処理で父方の親戚ともめている母を見て、母は絶対的な存在であると同時に、私にとって、何があっても守らなきゃいけない人になった。

母のために生きる。そう決めた。まだ十代だった私は喪主を務め、何がなんだかわからないままに会社の自己破産処理をした。知らない人が見たら、涙一つ見せずにただ「やるべきこと」をこなしていた私は、冷たい娘に見えたかな。だって、その時の私には父の死を悼んで泣いてる余裕なんてなかったから。

以来、「親孝行しなきゃ」という気持ちに急き立てられるように、学生時代はアルバイトを3つ掛け持ちして母に「おこづかい」を渡し、就職してからもボーナスは全額母に直行。母の笑顔を見るためにブランドバッグを買ってあげたり、海外旅行にプレゼントしたり。

それは結婚した後も変わらなかった。夫よりも母。夫には「結婚するんだから最後に母娘旅行をさせて」と旅行費用50万円を強要・・・おいおい。

その人とは色々あって離婚したんだけど、離婚の話し合いにも母は当然のように同席。「お前らおかしいよ!」と言った元夫に対して私はキレたけど、今思えば本当におかしかったよね。

母という人は、0か100か、ではなく100かマイナスか、の人だ。

「完璧主義」という言い方もできるのかもしれないけど、母にとっての「完璧」は毎日を自分のルール通りに過ごすこと。

たとえばタオルは頭を拭く用、顔を拭く用、体を拭く用に分けられていて、「どれでもいいやん」と私が言おうものならとたんに不機嫌になる。口答えは一切禁止。そのうちに私もそれが当たり前になり、夫の実家など、他の家が雑でおかしいのだ、と思うようになった。

そういえば洗濯物の畳み方や野菜の切り方にも母のルールがあったっけ。
お手伝いをしても「うーん・・・やっぱりママがするわ」とやり直しされ、次第になにも頼まれくなった。

家事は専業主婦である母のテリトリー。勉強と習い事しかできない私は、「戦力外」と判断されたのだ。

やがて私は今の夫と再婚することになり、双子を授かった。

仕事は忙しいし、母を一人にもできない、ということで母と同居することになった。母が欲しいと言っていた、広い庭がある二世帯住宅を買って。

・・・というのは、嘘。

私の人生のものさしはずっと母だったから。私はいい大学に入っても、一流の企業に就職しても、ずっと心の中には母に褒めてもらうことだけを求める小さな女の子がいて、自分に子育てなんてとても無理、母がいないと何もできない、と思ってた。

母と一緒に暮らしたいのは、私のほうだった。留学しているときも、結婚してからも、私は事あるごとに母に電話していた。仲がいいというわけでもないのに、母と繋がっていないと不安で仕方ない。これって一種の洗脳だったんだろうな。

同居するようになって、仕事しかできない私に代わって家のことをやってもらっているという負い目と、やっぱり私は母がいないと何もできない・・・という自己嫌悪。だから、母がどれだけ子どもたちに理不尽な理由で手を上げていても、何も言えなかった。

だって、私はダメな人間で、母がやることはいつも正しいんだし。

そして、気づいたら私も母と同じように子どもに手を上げていた。

そんな母親とおばあちゃんがいる家が子どもにとって安心できる場所であるはずがない。「死ぬ」という言葉が5歳の子どもの口から出たのは、そういうことだ。夫が追いかけていった時、彼は道端でしゃがんで言った。

「だって、何やっても怒られるし、僕なんか何もできへんし」

その時、思い出した・・・。

真っ暗な部屋に閉じ込められていたことを。「ご飯を美味しくなさそうな顔で食べてる」という母の被害妄想で、目の前で焼きそばをゴミ箱に捨てられた日。深夜にお腹が空いて、タバコの灰にまみれた苦い焼きそばを泣きながら食べたこと。

家は私にとって安心できる場所ではなく、ルールに支配された檻のようなものだった。

子どもにとって、世界のすべては親、家族。その家族に意志を否定され、叩かれるってことは、全世界に「お前はダメな子だ」と言われてるのと同じ。

そうだ、私もずっと「死ななきゃ」という強迫観念を持っていた。

一つでも失敗したら死ななきゃ。
テストが100点じゃなかったら死ななきゃ。
ママを悲しませたら、死ななきゃ。

私はあの頃から身体は大人になったけど、心は全然変わってない・・・。

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長男が「死にたい」と言った翌日、近所で大きな事件が起きた。人生に絶望した1人の男の凶行で、大勢の人が亡くなった。それも、世界中に夢と希望を与える作品を作る人たちが・・・そう、京アニ事件だ。

亡くなった方の中には、子どもの友達のお父さんも含まれていた。

目の前に広がる光景がテレビの生中継で写っている。消防車のサイレンが鳴り、煙がたちこめる空。家の中にいても聞こえる大きなヘリの音。

あぁ、これは現実の出来事なんだ。そう思ったら急に気分が悪くなって、私は吐いた。泣いて、吐いて、混乱した。どうしていいかわからなかった。

私がそこまで叩きのめされたのは、自分が犯人の気持ちもなんとなくわかったから。

あとで知ったが、この犯人は人から優しくされたことがなかったと供述したらしい。いや、そんなことはどうでもいい。知るか。だからって無関係の人を殺したりしちゃだめに決まってる。

だけど・・・なんかわかってしまう。全員死んだらいいのに、そしてもちろん自分も死んだらいいのに、という心に渦巻いている黒いうねり。

そうだ、私はその黒いうねりに飲み込まれてそれこそ包丁を持ち出したり、踏切に本当に飛び込んでやろうとしたんだった。傷ついてる自分をもっと傷つけたんだった。

この犯人の場合は「死んだらいいのに」という攻撃性が外に向い、私は内に向かった。私とこの犯人は、コインの裏表のようなものなのかもしれない。それに気づいた時、私は吐いた。吐きまくった。吐くものがなくなっても、私の中の黒いうねりが際限なく湧き続け、流れだしているような気がした。

そんな私を見て、母は「あんたが悲しんだからどうなんの?」と言い放った。

もう、何もかもがしんどかった。限界だった。自分でいることも、母でいることも、母がいることも。あるいは、限界を突き抜けて、精神的にはどん底のさらに下だったかもしれない。

息子が「死ぬ」と言ったのは、私のせいだ。

母親が笑ってないから、幸福に見えないから、子どもを闇の中に閉じ込められてしまうんだ。

その時、生まれて初めての感情がわいてきた。

「自由に、生きたい」

私はずっと檻に閉じ込められてきたんだ。母が作った檻に。母にとって私は、自分が世話をして自分が芸を仕込んでいる動物だった。

だけど、今の私は違う。

自分の家族がいる。どんな時でも私の味方でいてくれるパートナーと、親の思い通りになんて全然ならない個性豊かな子どもたち。彼らを私のように檻に閉じ込めてはいけない。

それに気づいた時、ずっと母が持っていた檻の鍵は、私の手の中にあった。
なんだ、私、ここから出られるんじゃん。自分の足で歩けるんじゃん。

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母が絶対的な支配者ではなくなると、色々なことが見えてきた。

たとえば、家事。私は母のやり方がすべてだと思っていたけど、もっと効率の良い方法、再現性の高い方法もたくさんあると知った。「カジハラ」なんて言葉もあるけど、ひとつのやり方を強いられるのは誰だって辛いんだ。

現に料理が得意だった夫も、母と暮らし始めてから明らかに腕が落ちていた。それは多分、母に調理用具の場所や火加減のことをいちいち責められてたから。

メーカーのバックオフィス歴が長く、仕組みづくりや作業効率化が得意な私。「誰でもやりやすい」「使う人を考えた方法」を考えようと思い、断捨離やライフハックの本を片っ端から読みまくって、ライフオーガナイザー®の資格も取得した。チャンスは母が旅行に出かけた1週間。

家事の動線を見直して家具の配置を変えたり、子供が使う食器はすべて割れないプラスチック製にして、子供が自分でも取り出せるようにした。

これで子供が自分の好きなときに飲み物を飲めるようになるから、母に「いちいち入れるのめんどくさい。もう寝る前にお水飲むのは禁止!」と怒られずに済むはず。

子どものやりたいが叶えられ、大人も楽ができる。家族の笑顔を想像しなが仕組みづくりするのはとても楽しかった。

だけど旅行から帰ってきた母には露骨に嫌な顔をされた。

「今まで別に困ってなかったのに」から始まり、「ママのやり方が気にいらんのか」「自分の存在を否定されて辛い」ととめどない愚痴・・・。

「いやいや、ママがいつも家事しんどいって言ってたやん。私たちも非効率なやり方でずっと困ってたんよ」という言葉は、私の心の中に飲み込まれた。

どうしたら母が少しでも幸せそうになってくれるんだろう?と考えて、趣味とか、外でやりたいことをやっては?と提案した。シニアでもできるアルバイトや習い事のチラシを持って帰ってみたり、習い事するならお金は出すよという話もしてみた。

「でも時間がないし」

「知らない人ばかりだし」

結局言い訳して母が動くことはなかった。もうだめだと思った。

「もう、ちゃんとそれぞれがやりたいことをやって生きていこうよ。私もママに頼りすぎてた。もっとしっかりする。だから、ママにもやりたいことをやって生きてほしい」

生まれて初めて、母に対して自分の意見をきちんと向かい合って言えたような気がする。

その結果は・・・

「やりたいことなんてない!」

「あんたらのために引っ越してきてやったのに!もう出ていくわ!」

母は怒り狂い、家を出ていった。夫を思いっきりビンタして。

私はその時、悟った。

ううん、ずっと心の中ではわかってたけど、気づかないふりをしてた。

母も私に依存してたんだ。「自分がいないとダメ娘」がいることで、自分の存在価値を満たしていたんだ。

その数日後に、「孫に合わせろ」「これだけやってやったのに」と家の外で騒いでた。まだ怖くて対峙できない私に代わって、夫が出て話をつけてくれた、らしい。本当になんて素晴らしい人。彼に出会って初めて神様みたいにいい人って本当にいることを知った。彼は、いつでも自分の足で立って、私を支えてくれる。

そうだ、夫についても書かなきゃ。

夫は人間力の塊のような人で、鬱やら適応障害やらを抱え、妊娠中なのに薬を飲んで死のうとしたり、本気で彼を殺そうとして階段から突き落としたり、今考えるととんでもないことを私がしでかしても、ずっと私のそばにいてくれた。

だから、私が精神科で境界性パーソナリティ障害(人格障害)と診断されたときは正直ほっとした。私は病気なんだから、病気なら治れば、やり直せる、この人と笑って暮らせるかもしれない、その想いが私を支えてくれた。

ついでに今だから言っちゃおう。本当にありがとう、と。

母と暮らし、母のルールからはみ出さないように生きていた時、私の世界はひどく小さく、暗い檻の中。世界はフィルターがかかったようにモノクロームだった。

でも、今は違う。毎朝窓を開ければ広い空がどこまでもつながっていて、そこにはきっと私がまだ見たことがない素晴らしい出会いがたくさんあるはず。そんな世界の中に私は踏み出して行こうと思う。大切な家族と一緒に。

そんなことを考えながら、リビングの床にだらしなく大の字で寝転がってみた。35年の人生で初めての経験。

ああ、「おうち」って安らげる場所なんだ。

そう思えた瞬間、涙が止まらなくなった。お腹に乗ってきた子ども達をぎゅっと抱きしめて泣いた。涙は後から後から流れ出した。涙と、そして35年間溜め込んできたなにかも、私の中から流れて出ていった。

その日は初めて、保育園も習い事もサボった。サボっても、誰にも怒られなかった。誰も死ななかった。もう、「死ななきゃ」って思わなくていいんだ・・・子供も、私も。

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子どもを幸せにするなら、まずお母さんが幸せにならなきゃいけない。私が、私自身のままでずっと幸せでいること。それが今の生きる目標、かもしれない。

今、私は新しいことを始めたい欲が止まらない。

子どものため、そして失われた記憶の「小さな少女」である自分自身を癒すため。

自分の経験が誰かの役に立てば…と始めた育児ブログ。そのついでに始めたTwitterで、これまでなら出会えなかっただろう人たちと出会い「仲間」が増えた。

私のこれまでのエピソードなんて霞んでしまうくらい、壮絶な過去や苦しみを乗り越えて成功している人がこんなにもいる。彼らと一緒にいると体中からエネルギーがあふれて、死にたがりのダメ人間だった私でも「やりたい!」と願えば何でも叶えられる気がした。

「自分の進む道を決めるのは母や他人の評価じゃない」ってことが腑に落ちたからなのか、あれだけ自慢だった大企業からもあっさりと退職。さて、これから何しよう。

「挑戦して失敗したら?」

「できないことがあったら?」

なんて思いは微塵もない。

だって、この広い世界にはいろんな人がいて、いろんな個性がある。ずっと他人に弱みを見せちゃいけないと思ってたけど、自分の弱いところも素直にさらけ出せば、たくさんの人が私を助けてくれることを知ったから。

そして、そんな素敵な仲間たちに囲まれて、かつての私のように、檻に閉じ込められた「小さな女の子」が前向きに生きるきっかけを届けられるような仕事ができたら、最高だと思う。

まだまだこれからも滑ったり転んだりすると思う。転んで擦りむいた膝小僧は、ちょっと痛いかも。

だけど、もう私は、転んだ痛さより母に怒られるのが怖くて、感情を押し殺してただはを食いしばってしゃがんでいた小さな女の子じゃない。泣きながらでも自分の脚で立ち上がって、全力で幸せに向かって進んでいる姿を子ども達に見せながら生きたい。

もう二度と、母親に子どもを殺させない。

死にたいなんて思わせない。

だって、私は自由で、子どもが死にたいなんて思う暇ないくらい、生きてる面白さを見せ続ける母親になるんだから。


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