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アタラクシアの終わりの始まり

そういえば近頃私は心穏やかに過ごせている。

金原ひとみ著『アタラクシア』を読んでふとそう思った。

日々ちょっとした嫌なことはあるけれど、何も手につかないくらい落ち込んだり悩んだりはしていない。
若い頃のように、好きな人に情熱を注ぐことが無くなったというのもあるけれど、それよりも何よりも、1人でいる時間を大きく増やしたということが大きいのかもしれない。
ここ数年は特に、自分だけで何かをする時間を増やし、コミュニケーションに費やす時間を減らしているのだ。

誰かと過ごすことはもちろん楽しいのだけれど、感情がゆらゆらと動かされるから忙しい。
誰かの一言で泣いたり笑ったりもするし、幸せな一言で浮き足立って世界が輝いて見えることもあれば、意地の悪い一言で胃がキュッとなってこの世の終わりだと思うこともある。

泥臭い人間関係も案外好きだけれど、ママ友コミュニケーションという不必要な人間関係で疲弊してきた私は、今のこの揺さぶられない生活がものすごく心地よい。

そんなわけで、しばらく忘れかけていた複雑な感情を『アタラクシア』を読んだことで久しぶりに思い出した。
 
この物語は6人の男女の視点で書かれた物語が交差しながら展開していく。

不倫する者される者、同居する家族全員に不満を持ち誰からも愛されないと嘆く者、愛されていなくても愛し続ける者など、それぞれが「愛」という本当は幸福なはずの言葉を、呪いの言葉のように感じて苦しみながら生きている。

読み進めていくと、私はいつの間にか6人の人生を擬似体験しており、最後まで読み終えたときにはものすごく疲れていた。
感情がとにかく忙しく動き続け、常に心拍数が上がっている感じがして、まるで自分が愛で苦しんでいたり、悪いことをしてるんじゃないかという気にまでなっていた。

この物語は6人の視点で語られているだけあって、本人の視点と他者からの視点では同じ人物なのに真逆の印象になっているところがなんともリアルだった。
読みながら、結局人は他人のことなんて何にも分かっていないんだなと痛感し、切ない気持ちになっていった。

私たちは自分が見えているものを都合よく組み合わせてその人のイメージを作っているだけなのかもしれない。
想像力が乏しかったり、自分の知識が少なければ、狭い頭の中でぐるぐると同じことを考えているだけだし、他人の人生について全てを理解することは絶対に不可能なんだと思う。

この物語でいえば荒木がそうだ。

荒木は物語の主要人物の6人ではないため、彼の視点で語られているパートが無い。つまり、荒木については切り取られた情報のように分からないことだらけで自分の想像の範囲でしか語ることができないのだ。

愛人の真奈美といるときの荒木は本当に優しくて良い男だ。なんというか、絶妙な距離感をよく解っている。
荒木の真奈美に対する接し方を見ていると、彼が過去にどれだけ傷ついてきたのかも良くわかる。
傷ついてきた人は、傷つけない方法もよく解っている。だから、DVに悩む真奈美が1番心地良くいられる方法で接していたし、私には荒木が真奈美のことを愛していたようにも感じた。そして、真奈美は荒木にとって最後の砦だったような気がしてならない。

思い悩む真奈美を救おうとしたが、荒木は真奈美にも別れを告げられて1人取り残されてしまった。
自分の愛で誰かを救うことを諦めてしまった瞬間だと思った。
そして、愛で苦しんでいる人を救うために、愛の呪縛から解放するために、救いようのない救いで、荒木は犯罪者になってしまったのではないだろうか。

登場人物の1人、由依が言っていた言葉がある。

「1番になりたいとか特別でありたいというのは強迫神経症的な欲望でしかない。誰も愛していなくても、誰からも愛されなくても普通に生きてける人間になった方が良い。」

愛や人に依存せず生きることができたら、もっと自由に、もっとラクに生きることができたのではないだろうか。 
とはいえ、私の想像力では追いつかない何かがもっと隠れているのかもしれない。
荒木について、まだまだ考える余地がありそうだ。

この本を読み、人と人との関わりとは一体何なのか、人を好きになることで得られる幸福とは何か、真実の愛とは一体何なのか、そんなことをひたすら考えたくなった。
 
久しぶりに感情を大きく揺さぶられる、貴重な読書体験だった。

****

本から離れた後も、ぼんやりと頭の中で物語が続いている。

誰にもわかってもらえなかった荒木を、私の妄想の中で救い出すために、私は荒木に逢いに行く。
しかしそれは、私の「穏やかな日々の終わりの始まり」。

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