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木のいのち木のこころ(天)②

 いまは科学が進歩し、コンピューターが普及し、たいそう便利な時代になりましたな。たいていのことは機械がやってくれます。それこそ1ミリの何分の一という正確さで、どんなものもあっという間につくってしまいますな。技術というものはすばらしいもんですわ。大工の世界にもこうした機械がいっぱい入ってきて便利にさせてもらっています。
 しかし、この機械の時代が来ましたら「職人」が消えていきました。機械やコンピューターが、職人が代々受け継いできた技と知恵を肩代わりして、ものをつくってくれるようになったんです。
 時代は科学第一になって、すべてが数学や学問で置き換えられました。教育もそれにしたがって、内容が変わりました。「個性」を大事にする時代になったといいますな。
 しかし、私たち職人から見ましたら、みんな規格にはまった同じもののなかで暮らしているようにしか見えませんのや。使っているものも、住んでいる家も、着ている服も、人を育てる育て方も、そして考え方まで、みんなが同じになっているんやないかと思っております。

木のいのち木のこころ(天)西岡常一
 まえがきより

 1993年の本(30年前⁉)だが、今、現在のことのようだ。
 今、AIが、音楽や美術、表現の世界まで入ってきて、ハリウッドの俳優たちが自分たちの権利を守るためにデモしたり、技術の発展は否応なく世界を変えていく。
 西岡棟梁が、30年前から危機感を感じでいたのが大工という仕事なんだと頭をぶん殴られたような気がした。
 西岡棟梁が世界一の木造建築の法隆寺を守るように生活してきたことが全く凄い。そのストイックな生き方の厳しさから「法隆寺の鬼」と言われた。

 自分のためではなく。
 法隆寺という日本国民全体の文化である公(おおやけ)のために生きていた人なのだということがこの本を読んでいる間中、胸を打った。
  
 若くて仕事に就き、生きてこの世の中をサバイバルして生きて行くという自立をゲットすることは、人間の人生において最重要なことだ。

 この世の中に1人で立つ。
 
 仕事の始まりに、私はこの教師と言う仕事を、38年間やっていけるのだろうか?という自分のことしか考えていなかった。教育と言うシステムの中の画一的な一教師であった。

 この世の中の若者を育てる教師という職に、もっと、公の仕事であるという自覚が、初めに有ったなら、と想像する。
 西岡棟梁みたいに、この世の中を千年単位で見据えて、働いたら、もっと、違う教師が育つのではないか。

 育てるというのは人間だけではありませんわな。檜にしろ杉にしろ、人間に育てねばならないという使命感がなければ育ちませんで。


 しかし、木を育てるというのは大変なことです。自分のことだけを考えていたらできません。国の未来や国土の命を守るという使命感があって、初めて木は育てられるんです。人間を育てるのも同じことでっせ。次の世界を担う人を育てるという使命感がなければあきません。それも口先だけやなしに心底から信じてなくてはあきませんわ。

 今、自由人だが、西岡棟梁の教えを胸に抱いて、公の視点を持とうと思う。これから先、何か自分がやるべき事に出会った時に、公の視点で働くことを考えるつもりだ。

 まずは自然の命というものに対して、もっと感謝して暮らさななりませんな。今の人は空気があって当たり前。木があって当たり前と思っていますけど、水がなかったら命がありませんのやし、生命も育ちませんな。今の人は自分で生きていると思うていますが、自分が生きてるんやなしに天地の間に命をもらっている木や草やほかの動物と同じように生かされているということ、それを深く理解せなあきまへん。
 自分だけで勝手に生きていると思っていると、ろくなことになりませんな。こんなこと、仕事をしていたら自然と感じることでっせ。本を読んだり知識を詰め込み過ぎるから肝心の自然や自分の命がわからなくなるんですな。知識はあまり植えつけんほうがいいと思いますな。(中略)
 自分自身が生きていくんやから、自分自身で悟らないかんということでしょうな。そういうふうに自然を悟れということでしょうな。

 大工の手と経験を通して古人の思想が流れ込んでくる。
 西岡棟梁の言葉は、昔の日本人が、自然に心に持っていた生き方にも思える。西洋の覇権主義に圧され、日本の思想が無いように見える現代。

 今、日本人の本当の在り方を考える時が来ている。

 日本人が読むべき一冊である。


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