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短歌もらいましたⅤ✧♡

 さて、穂村さんから短歌をもらうのも、すでに5回目。
「ぼくの短歌ノート」穂村弘から、すきな短歌をもらいました。
 私の感想は細字、穂村さんの解説は太字で。

スカートはいて鰻を食べたいと施設の廊下に夢が貼られる

安西洋子

 母が亡くなる前の6年、施設に居たので、施設のことを詠んだ歌にはなんだか引っかかる自分がいる。6年、施設にいて、残りの3年はコロナである意味会えなかった。無情だなあ、と思う。母はなぜ私が尋ねてこないかわからなかったかもしれない。打ち捨てられていると思わなかっただろうか。
 いろいろな思いが去来する。もう少しで、私も自由人だったのに。

体などくれてやるから君の持つ愛と名の付く全てをよこせ

岡崎裕美子

 この作者の好きな男はダメ男なんだろうか?それとも、性愛に向かう20代の愛を、そんな風にわざと詠んだだけであろうか。どちらともとれる。

罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながくつくられし我れ

与謝野晶子

 自らをつくられたモノとみなしつつ、しかし、この歌には受け身の感覚はない。むしろその逆に、ナルシシズムと「罪おほき男」に対する能動性を読み取ることができる。
 与謝野晶子の歌にはいつでも、ドキッとする。

子の部屋を夜に覗けば腰までもパソコン画面に吞まれておりぬ

藤原建一

 「アニメ」のあとは「パソコン」が子供たちを待っている。
 アニメもパソコンの誘惑も凄いと思う!

髪の毛がいっぽん口に飛び込んだだけで世界はこんなにも嫌

穂村弘

 きゃああ~穂村さんだ。なんだろう。この自分軸の世界の小ささ。
 カワ(・∀・)イイ!!めっちゃかわいい。しかし共感!


ぼうぼうとけぶれるはるを階段に紅しょうが一片(ひとつ)おちいたるのみ

村木道彦

 紅しょうがが階段に落ちていることなんて、そんなにない気がするけど、焼きそばやお好み焼き好きの黒帯なら、やりかねないと、臨場感があった。また、紅しょうがって春の季語だった?って錯覚をこちらに抱かせるのがいい。


十といふところに段のある如き錯覚持ちて九十一となる

土屋文明

「錯覚」なのである。そうわかっていても、捉えがたい生命というものを把握するために我々はついデジタルな数値に頼ってしまう。以前、或る人が九十九歳で亡くなったという話をきいたとき、反射的に「惜しかったな。もうちょっとで百歳だったのに」と思ってしまった。それから慌てて反省。ちなみに引用歌の作者である土屋文明は1990年に百歳で亡くなった。
 母が去年、95歳で亡くなった時、百歳まであともうちょっと、と思った。私の自由人まではあとあと七か月ちょっとであった。

かゆいとこありまひぇんか、といひながら猫の頭を撫でてをりたり

小池 光

 猫といると、いつの間にか、自分がかわいい声を出していることがあり、これが猫なで声というものか!とびっくりすることがある。作者もいつも美容院で自分がされているように猫に言った声に、自分で笑えてきたのかもしれない。

目のまへの売犬の小さきものどもよ生長ののちは賢くなれよ

斎藤茂吉

 斎藤茂吉、教科書でよく見かけた大御所の短歌を、短歌の解説書でよく見かける。その歌は、名歌、というものもあれば、素朴なものも、天然なものもあり、いろいろなタイプの歌を創れる天真爛漫な印象だ。わんにゃんカーニバルなどに出かけると売犬のちいさきものどもが一杯いる。賢くなれよとは思わなかったがw。

わたくしはけふも会社へまゐります一匹たりとも猫は踏まずに

本多真弓

「一匹たりとも猫は踏まずに」という奇妙な下句によって、「会社」的日常の裏側にもうひとつの世界が張りついていることに気づかされる。

いつの日のいづれの群れにも常にいし一羽の鳩よ あなた、でしたか

光森裕樹

読んだ時に自分にもこんな体験がある気がした。野生の個体の中に、いつも見ている一つを確信した時。それともそれは親しい人の命を乗せたように感じた鳩だろうか。

たしかくんのぱっひょうとはもしかしてたかし君の発表のこと?

野原 栞

 そういえば私も幼い頃、ネズミをネミズだと思っていた。そしてパジャマをタマジャだと、サン・テジュペグリがサン・テグジュペリだと知ったのは高校生のときで、カトラリーとカラトリーのどちらが正しいのかは今もよくわからない。(中略)でも、天井をネミズが走り回り、サン・テジュグベリの童話をタマジャを着て読み、教室で「たしかくん」が「ぱっひょう」する。そんな世界が我々の現実のすぐ隣にはあるんじゃないか。


名も知らぬ小鳥来たりて歌ふ時われもまだ見ぬ人の恋しき

三ケ島葭子

 春の楽しさはここにあるなと思う。作者は「恋」という未知への憧れを歌ったものと穂村さん。そうか、恋だったか。しかし、恋は何にしてもいいではないかと思う私。恋とは実際すると苦しいものであるw。小鳥が鳴くだけで、無条件に嬉しい。私は春に恋をしているのだ。

一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております

山崎方代

 作者は男性で破天荒な生き方で知られる歌人。
 姉は働かない隻眼の弟の面倒を見続け、親戚でもない人々がルンペン同然の彼のために庭にプレハブ小屋を建ててやり、さらには何人もの女性たちそこに訪ねてきて身の回りの世話をやいている。そんな伝説めいたエピソードの一方で、方代は生涯童貞だったという説があるらしい。引用歌のような作品を観ると、おかしな感想だが「本当の恋」は嘘でも童貞は事実かもしれないなと思う。「ありまして」「おります」という通俗すれすれの口調の中になんともいえない魅力がある。一人の人間が常識の枠や損得を越えて他者の心を魅了するためには、その魂に一筋の疑い得ない純粋さが必要になるのではないか。その光が感じ取れるからこそ、人は彼の滅茶苦茶さをも愛するのだろう。存在の核にあるものの真偽に対して、人間はとても敏感なものだと思うのだ。

佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子をらず

小池 光

 猫の額をかいていたひとと同じ歌人だ。彼女の歌がスキなんだろう。
 最初、教師か?と思ったけど、教師はそんなことを想わない。憎たらしい友達か。しかしじめじめと陰湿なのではなく、さばさばして、どこか可笑しい歌である。

 今日は、「短歌ください」の本以外の穂村さんから短歌を頂いてみた。
 次回は、穂村さん以外からも短歌を頂いてみたい✧♡





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