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「聴く」ことと「聞く」こと

以前、「きこえるってどんなこと?」というテーマで話し合いをしたので、そのことを思い起こしてみました。

聴覚障害児教育をする私たちは、
「きこえない」ということから学び始めます。
それは健聴者にとって「きこえる」ということは当たり前のことであって
そこに疑問をもつことはないからです。

私も、この領域の勉強を始めるまでは、
「聞こえるという事実」に対して意識を向けることはなかったです。
ですが、
聴覚について学び始めると、聴覚ってとても奥深くて、
この小さな器官が果たす生理学的・心理学的機能に本当に驚きました。
同時に、当たり前がなくなることの大きさを私なりに想像するけれど、しきれませんでした。
ちなみに、内耳は小指の先くらいの大きさです!

「きこえない」ということはまず、「きこえる」という状態に対する
メカニズム・心理学的効果など様々な側面を理解していることが基礎となり、
本質的な理解へとすすんでいくのではないかと思います。

ここで思い出したのが、
「聞く」あるいは「聞こえる」
「聴く」あるいは「聴こえる」 の違いです。

これは、私が学生の頃にある先生の講義で問いかけられたことです。
感じは本当に有意性の高い文字ですね。なんとなく違うことはわかる気がします。

ここには音に対する意識の違いがあるようです。

✅聞く
音や声などが自然と耳に入ってくること

✅聴く
自分から積極的に耳を傾けること
確かに、心という字が入っているので、より音に意識を向けているイメージがありますね。
例:音楽を聴く 話を聴く

「違いがわかる辞典」より。
これ、ことばについて考えるとき、参考になりそうです(*^-^*)
https://chigai-allguide.com

ここで私は、もう一つ考えたことがありました。
「音が耳に入る」ことと、その「入ってきた音を認識する」ことは違うということ。
前者が「聞こえる」であり、後者が「聴こえる」と考えることもできるのではないでしょうか?
これは、音が耳に入って脳に至るまでのプロセスと、
脳に至った後からのプロセスの違いともいえるかと思います。

先ほどの文字の話でいくと、
カタツムリの内耳に音が届き、刺激を感じるのが
「聞こえる」
そこから先の聴神経で色々な処理をされ、脳にいたり、脳のきこえを担当する部分で
「~って言ったんだ」とわかることが
「聴こえる」
というイメージで私は考えています。

そうすると、
補聴器や人工内耳って、あくまで「刺激としての音」の入り口を確保する方法に過ぎないのです。
補聴器や人工内耳をして、名前を呼んだら振り返るようになった。
そんなお話はよくお聞きします。

ですが、それは果たして
何か音がしたから振り返ったのか
自分の名前が呼ばれたから振り返ったのか
どちらなのでしょうか?

それは、呼びかけた子どもや人の普段の様子、年齢、言語力など様々な側面を組み合わせて初めて
こうではないか、と予測することのできるものだと思います。

補聴器をしているから、人工内耳をしているから、聴こえているとは限りません。

「きこえる」とはどの段階のことを指すのか。
きこえにはとても複雑で多層的なステップがあり、
どこに難しさがあるのか、今はどの段階にアプローチすることを重視すべきなのか。

これを考えるためには、「きこえる」ということを「音が入る/入らない」だけでなく
「どんな音かわかる/どんな音か分からない」という認識的な面もあるということを私たちこそ、改めて認識する必要があると思います。

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